音楽の授業ほど曖昧で不可思議なものはなかった。根本的に体育馬鹿の透也にとって、体育以外は全て苦手教科だ。音楽は、その中でも特に嫌いというわけではない。かといって好きとも言えない。つまり、あってもなくてもいいという程度の教科なのだ。
 オーケストラの映像を見たり、楽器を演奏したりするのは退屈だけど、ピアノの音や歌声を聞いているのは嫌いじゃない。つまらない時は、半円形に配置されている席から、窓の外の木立を見ていればいい。
「ほら、授業をはじめますよ。そこ、佐々木と横田、ちゃんと出席番号順に座りなさい。・・・じゃあ今日は先週言ったとおり、歌のテストがありますからねー。えーじゃないの。はい、教科書開いて。花の季節」
 髪の短いふくよかな音楽教師が、きびきびと指示を出した。誰でも歌のテストは嫌いだ。みんなの前で歌わされるからなおさらだ。
「ゆっくり歌うところと、早く歌うところの区別をしっかりね。最初の“遠い道を”のところの強さはピアノでね。ピアニッシモより少しだけ大きいのよ。“時はめぐり”からはメゾ・フォルテ。強弱もチェックしますからね。そしてそこからアレグロに変わるの、ちゃんと確認しておいて」
 クラスがざわつきを見せる。中央に置かれた、休み時間になると生徒の溜まり場となる石油ストーブが、赤々と燃えている。
「じゃあ今日は女子の一番から行こうか。この前は男子が先だったものね」
 先生も、ブーイングが起きることは承知だったので苦笑いだ。仕方ないという仕草で、出席番号一番の女子が歌いだした。
「 遠い道を ただ馬車は過ぎてゆく
  冬の静かな夜 森は今眠る     」
 女の子の声は、雨のしずくみたいだ。窓の外の、この冬最後であろう木枯らしに揺れる、高い木々を見つめながら、透也は頬づえをついていた。
 順番に歌い終わり、最後は鈴音の番だ。そういえば、鈴音の歌声を透也は一度も聞いたことがない。歌のテストのある日は、鈴音は毎回休むからだ。学校自体を休むこともあれば、気分が悪くなったといって早退したり、授業の最後の方に遅刻してきたりする。案外鈴音のことを見ているんだ。と、透也は自嘲気味に思った。
「森中さん」
 鈴音が立ち上がり、教科書を持った。そのまま歌おうとしない鈴音に、先生が歌うように促した。
「どうしたの、森中さん」
 その時突然、鈴音が床に吸い込まれるように倒れた。ゆっくりと細い体が揺れてその場に崩れ落ちるのを、クラスのほとんど全員が見ていた。先生が急いで駆け寄り、鈴音を支えた。クラスは愕然としたままその様子を見守った。
「・・・すみません、少し貧血気味で」
 夏虫のようにか細い声で鈴音は言った。気はしっかりしているようだ。
「でも顔が青いわ。このクラスの保健委員は誰?」
「大丈夫・・・ですから」
「保健室で休んだ方がいいわ」
「ハイ、俺ですけど」
 透也が手を上げると、先生は近くに来るようにと手招きをした。
「彼女を保健室まで連れて行ってあげて。内線で保健の先生には連絡しておくから」
 透也は、立ち上がった鈴音とともに音楽室を出た。背中に突き刺さるような、杏里の視線が気になった。
 昼間でも薄暗い音楽室の前の廊下を通り、旧校舎から新校舎への短い渡り廊下を越えた。
「お前って演技うまいな」
「まあね」
 悪びれもせずに鈴音は言った。
「そんなに歌うの嫌なのかよ」
「歌うことは神聖なことよ。どうしてどうでもいい人たちの前で歌わなくちゃいけないの?」
「何だよその理屈。カルト宗教の信者かよ。変なヤツ」
 一年生の下駄箱の脇の大きな全身鏡の前を通る時、透也は足を止めた。
「保健室、本当に行くのか?」
「ちょうど眠いし」
 鈴音は無表情のまま言い、保健室へ行くための廊下を曲がった。
「失礼します」
「どうぞ。連絡もらってるわよ。大丈夫?」
「ちょっと、貧血気味で」
「そう、少し顔が青いものね。ちゃんとご飯食べてる?お肉も魚もバランスよく食べないといけないわよ。もし貧血が続くようだったらお医者様に診てもらってね。熱は・・・ないみたいね」
 保健室の先生は、鈴音の額に当てていた手をはずした。
「少し横になって休んでらっしゃい。でも、ごめんなさいね。私、これから急な出張で出かけないといけないの。悪いけど、中谷君ここにいてくれる?」
「え、俺?」
「そうよ。私がいない間に森中さんが具合悪くなったら大変でしょ。そうなったら、職員室に先生を呼びに行くのよ」
 白衣の保健医は、あわただしくベッドを調えながら言った。
「先生には内線で伝えたから心配しなくてもいいわよ。授業が終わっても森中さんが具合悪いようだったら、お家に帰すように担任の先生に言っておくから、保健室の鍵を閉めて職員室に持っていってね。わかった?」
 保険医は、鈴音にベッドに寝るように指示し、安静に、と言い残すと荷物を持って出て行った。
「お前のせいで居残りで歌のテストやんなきゃなんないだろ」
 透也はカーテンの向こう側をにらんだ。窓の外は霧のように細かい雨が、全ての物音を消していた。
透也は濡れた木々が緑を増すのを見つめながら長イスに腰掛けた。何もすることがないので、熱を測ってみたり名簿に落書きをしてみたりしたが、すぐに飽きてしまった。
「あーヒマ」
 声に出しても返事はない。雨は透也の感情を優しく包み込む。心地いいけどこそばゆい。雨は母親のようだ。どんなに柔らかくても、今の透也には鬱陶しいだけ。
 透也は立ち上がってベッドの脇の白いカーテンを破るように開けた。
「もう俺戻っていい、・・・」
・・・見つけてしまった。そして瞳を奪わ
れてしまった。
ベッド、シーツ、鈴音の肌。何もかもが白い。そこに黒く長い髪の毛が、羅紗紙のようにちらばっている。綺麗だと思った。生きている人形のようだと。
 閉じている瞳に縁取る長いまつ毛。淡い薔薇色の頬。薄紅の唇。開いたばかりの牡丹の花。
「寝てんの」
 声にならない声で透也は言った。鈴音から目が離せない。口付けたい衝動が、透也の理性を奪っていく。鈴音が気づいていようとかまわない。
そして、触れてしまった熱に、透也はうかされる。
花が、花が咲き乱れている。見たこともないような花が。