「杏里、学校探検しよーぜ」
 真っ暗な校舎を指差して、透也は言った。
「はぁ?何言ってんだよ」
 透也の突拍子もない発言に、杏里は呆れ顔だ。
「早く早く!」
 透也はそれでも、笑いながら校舎の入り口へと駆けて行く。杏里は小さなため息をついてその後ろに続いた。透也が言い出したら聞かないことを、杏里が一番よく知っていた。
 その中に溶けてしまいそうなくらい深い闇の中を、二人は泳ぐように歩いていく。
「あ、鍵がないとは入れないんだっけ」
「お前、そんなの初歩の初歩だろ?これをこうやって」
 杏里は、ポケットから針金を出すと、少し曲げてから職員玄関の鍵穴に入れ、巧みに鍵を開けてしまった。
「お前、犯罪じゃんそれ」
「お前が行きたいっつったんだろ。この校舎は古いし、防犯設備もついてないから大丈夫だよ。一回も泥棒に入られたことがないからって、防犯システムに加入してない学校側が悪いんだ」
 杏里は吐き捨てるように言うと、玄関を開けた。二人はマットの上で靴をはたき、そのまま廊下に上がった。
「透也の親、心配してるぞ」
「杏里と一緒だったって言えば平気」
「俺って信用されているんだ」
「お前が家に来るたびに、母さんにうまいこと言うからだよ。お前、年上の女落とすのうまそうだよな」
「実際うまいぜ」
「嘘」
「嘘だよ」
「ムカつく~」
 叫んだ透也の声が、伽藍堂の校舎に響いた。
「電気つけるなよ。通りかかった人が不審に思う」
「つけない方がスリルあっていいじゃん。街灯と月明かりで結構見えるよ」
 昼の学校とはまるで変わってしまった、音のない空間が二人を迎えた。
「眠っている人の体内を歩いているみたいだ」
 一本の街灯を囲むようにコの字型に建っている新校舎の窓に、手を触れながら透也は言った。その青白い光に頬を照らされたまま、杏里の方を振り返った。そして不思議な表情で杏里を見つめている。
「夜、蝶はどこにいるんだろう」
「眠っているんじゃない」
「眠ってはいないよ。きっと、花を求めて飛んでいるよ」
「言ったろ。蝶は光がないと何も見えないんだよ」
「じゃあ光を求めて飛んでいるよ」
 二人を飲み込んだ物音一つしない校舎。透也は何をも恐れてはいなかった。
「行こう、杏里」
 この学校は、外部は灰色のコンクリートに覆われているが、内部は全て木造の、変わった造りをしている。だから、木の感触はあるが、木造特有のギィギィという木のきしむ音はほとんどしない。
「うわー職員室めっちゃ不気味」
「鍵閉まってるな。開けるの面倒くさいから次行こうぜ」
「どこも閉まってるんじゃねーの?」
「確か保健室は鍵がしっかり閉まらないよな。扉を強く引けば開くと思ったけど」
「俺、保健委員の仕事以外でここに来るの、初めてだ」
 杏里の開けた保健室の中に入りながら、透也は言った。
「お前、いつもどこかしら怪我してるのに保健室行かないよな」
「だってめんどくせーんだもん。舐めときゃ治るし」
「凄い回復力だな。さすが野生児」
「うるっさいなー」
 グラウンド側に面している保健室は、グラウンドを照らす常夜灯の薄い明かりで満たされていた。
「水のない水槽みたいだ」
 透也が放心したようにつぶやく。
「不気味っていうか、妖しい」
 そして二つ並んでいるベッドの白いカーテンを引き開けた。
「このベッドも初めてだ。わー気持ちいいな。数学の時間とか、仮病使ってここで寝ていようかな」
「お前の仮病はすぐばれるよ」
 杏里は、ベッドから離れた三人がけのイスに座って、青く沈むグラウンドを眺めた。誰もいない。音もない。
「透也?」
 杏里の声に、返事はない。
「透也」
 もう一度、つぶやく。杏里は立ち上がってベッドの方に向かった。白い毛布に包まって、透也はまるで死んでしまったかのように眠っている。
夜の足音が響き、空気が微かに揺れた。
杏里は、透也の頬に触れた。途端、触れてはいけない禁忌に触れてしまったような錯覚に陥った。
まだ、少年、という形容がぴたりと当てはまる透也の輪郭。いつもは何もかもを吸い込むような深い色の瞳も、笑い声を漏らす赤い唇も、閉ざされたまま。俺だけのものにしたい、と杏里は思ったのだろうか。
夜が羽を広げ二人を覆ってしまうと、杏里は自分の唇を透也の唇に重ねた。
闇に体が溶けてゆく。心ごと溶けてゆく。
「起きていたのか?」
透也がゆっくりと目を開けた。
「お前に起こされたんだよ」
「死んでいるのかどうか確かめたんだ」
杏里は言い、透也の髪の毛に触れた。
「杏里の唇って冷たいんだな」
言いながら透也は、腕を伸ばして杏里の唇に触れた。杏里が不敵に笑った。
「お前は太陽じゃなくて、闇だ」
言いながら杏里は、ベッドの前のイスに腰をおろした。
「杏里って刺があるよな」
「トゲ?」
「それで身を守っているんだろ?」
 花は身を守るためだけに、刺を持つなんて嘘だ。
「・・・タイムリミット」
「はあ?」
「もう帰るぞ」
「えーだって少ししか見てない」
「お前のお母さんの信用をこれ以上落としたくないからな」
 透也はそれを聞くと、素直にベッドから下りて靴をはいた。
「杏里、待てよ」
 透也が杏里の学ランの袖をつかんだ。振り向いたその顔は、白い百合の花のように端正だ。それゆえ、人に冷たい印象を与える。
二人は中学校に入学して、同じクラスになって初めて話すようになった。杏里、なんて気取った女みたいな名前なのに、杏里には杏里という名前が本当に良く合っていた。他の名前なんて考えられない。仕草、視線、声、そのなにもかもが、杏里を杏里たらしめていた。
性格も見た目も正反対だった二人だから、最初はお互いに反発し合っていた。入学して最初の何ヶ月かは、一言も口を聞かなかった。しかし、偶然同じ陸上部に入って、嫌でも一緒にいる機会が増えてくると、いつのまにかお互いを受け入れていた。そして急激に近づいた。ほとんど毎日、二人は一緒に行動する。だから、杏里が杏里でしかないことは、透也が一番よく知っていた。
廊下を引き返していると、透也がいきなり立ち止まった。
「透也?」
「杏里、蝶」
 杏里が闇に目を凝らすと、昼間のアゲハ蝶が頼りなげに揺れ飛んでいた。夢か現か、まだらの羽を広げ、呼んでいる。
・・・誰を?
「透也、どこに行くんだよ!」
 透也が蝶のあとをふらふらとついていく。熱に浮かされたように、燐粉の作る道を辿って行く。杏里がそのあとを追った。
 こちらへおいでこちらへおいで。躊躇うなんていけないよ。信じるなんていけないよ。嘘も本当も、最初からないのだから。
 薄暗い階段を上り、蝶はゆらゆらとどこかへ向かっている。
「透也、戻るぞ」
 杏里がつかもうとした手をすり抜け、透也は蝶を追う。
「透也、行くな!」
 杏里がやっと透也の腕をつかみ、強く引き寄せた。余りの力に、透也はそのまま床に倒れ、その上に杏里が折り重なった。
「透也」
 杏里は叫ぶと、透也の首筋に噛み付くようにキスをした。
「嫌だ、杏里」
 透也が杏里をはねのけようと手足を動かしたが、身長差も体重差もある杏里には、少しも通用しない。
「やめろ、杏里」
 透也が大きくかぶりを振ったが、杏里は無理矢理透也を押さえつけた。
「杏里!」
 その透也の叫び声で、杏里も、透也自身も我に帰った。
「杏里、もう蝶は消えた」
 透也が震える声でいい、杏里がゆっくりと顔をあげた。透也の首筋には無数の血痕が残された。満月に少し欠けた月が、二人を冷ややかに照らし出している。
「蝶はもう、いない」
 杏里の目から涙がこぼれていることに気づいた透也は、それを指でぬぐった。
「・・・ごめんな、杏里」
「全部お前のせいだ」
 そう言って杏里はまた、透也に唇を重ねた。
 花は開く前から花であるのなら、散った後も花なのだろうか。いつかは消える運命と知って、何を思って開くのだろうか。
「杏里、早く」
 校門を軽々と飛び越え、後ろからついてくる杏里を呼んだ。
「絶対俺の親、担任に電話してるよ」
「かもな」
「かもなじゃねーよ。杏里の家は、いつもお母さんとお父さんいないんだろ?うるさくなくていいな。ったくどうしてくれんだよ」
「どうもしないっつうの」
 言い争いをしながら、坂道を全力疾走でかけ下りていく。
青い青い月明かり。水を入れ忘れた夜の水槽。その中に花びらが舞い落ちる。引力に負けて散っていく。花の名前は秘密だよ。二人だけの秘密だよ。