「鎮痛剤も極力使わず、これまで通りの生活を送りたい」
河本様の希望は、私達ナースに限らず、ケアワーカーにも伝えられた。
独居で身寄りもない彼女の病室を訪れるのは、医師かナースかケアワーカーくらい。それを退屈とも言わず、ほぼ一日中部屋の中で過ごされる彼女を車椅子に乗せ、外に連れ出すのが私の役目。一日ほんの十分程度だったけど、触れ合える時間を持てるのは有り難かった。
「体調はいかがですか?」
訪室すると、まず初めに体調確認。河本様は必ずこう答えていた。
「時々痛みに襲われるけど大丈夫。我慢できない程ではありません」
穏やかな口調で言う割には、顔色は悪い。でも、それを信じない訳にもいかず…。
「そうですか…良かった」
笑顔を作って安心したふりをする。それも大切なナースの仕事。時に切ない気もするけど、その切なさも、相手が生きていればこそ、受け取ることのできる大事な証。
「玲良ちゃんは…あら失礼、杉崎さんは…」
わざわざ言い換えようとする彼女の言葉に、つい笑った。
「玲良で構いませんよ。河本様」
大人になったからとは言え、彼女の前では私は子供の頃と変わらない。そんなつもりでいた。
「そう?じゃあ貴女も様をつけるのはやめて下さいな。堅苦し過ぎるから」
堅苦しいのは嫌いなのと言いつつも、自分は丁寧語を崩さず話す。その一貫した態度には、いつも感心させられた。
「河本さんは、ナースをお辞めになった後、何をされてたんですか?」
定年後も暫く、開業医の元で仕事をしていたと聞いていた。
「趣味を持とうと思って、いろいろとサークル通いをしたの。でも、どれも長続きしなくて。やはり看護という仕事が、自分にとっては一番の趣味であり、天職でしたね…」
患者と向き合い、病と向き合う。その献身的で人道的な仕事の中に見つけ出す答え。それは時に自分を責め、自分を慰め、自己を培ってくれる。
「尊いお仕事をさせて頂いたと思っています…」
手を組み祈る。その仕草に思わず聞いた。
「クリスチャンなんですか?」
「ええ。私の洗礼名はマリア・テレサなんです。看護学生時代、よく友人達からマザーと言われてました」
懐かしい昔話を、目を輝かせて話してくれた。でも、後になって、寂しそうな表情も見せた。
「本物のマザーには、なりきれませんでしたけどね…」
別れに終わった結婚で、ただ一人授かった子供さんのことを言っているんだろうと思った。
それについては、やはり聞きづらいものがあった。
「玲良ちゃんは?お付き合いしている男性はいらっしゃる?」
暗い雰囲気を吹き飛ばすように、明るい声を出された。さすがは元ナース。雰囲気作りも上手い。
「はい…私の彼は、ここの研修医をしています…」
少し言葉に詰まりながら答えた。慣れない事に顔を赤くする私に、河本さんが笑って言った。
「いいわね。きっと、素敵な人なんでしょうね…」
是非一度、お目にかかりたいものだわと微笑む彼女に、曖昧な返事をした。
駄目出しばかりされてる彼を思い出して、少し複雑な気分だった。
「お祖父様は?ご健在?」
彼の話から祖父のことを思い出されたらしく、懐かしそうに尋ねられた。
「祖父は、祖母が亡くなった二年後に心筋梗塞で亡くなりました…。眠ってる間に発作が起きたみたいで…ベッドの中で、眠るように息を引き取って…」
一時は変死かと騒がれたけど、穏やかな表情の祖父を見て、誰もが違うと判断した。
「お祖父様の元に、ミカエル様がお迎えにいらしたのね…」
その言葉を聞いて、祖母の最後を思い出した。あの日、初めて彼女と出会った…。
「私の元にも、間もなくいらっしゃるわね…」
覚悟を決めているかのような台詞に心が乱れた。
「そんな直ぐにはいらっしゃいません!まだ大丈夫です!」
ムキになって声を上げる私の手を、そっと包んでくれた。落ち着くようにと、優しく撫でられた。
「玲良ちゃん…私達はお別れする訳じゃないのよ…。ただちょっとの間、会えなくなるだけです…」
「そうかもしれませんけど…」
ギュッと手を握り返し、この温かさをこの世にずっと残しておきたいと思った。けれど、それは叶わない願い。命というものには、必ず終わりがくる…。
「心配しないで。天国に行ったら、貴女のこと、清花様とお祖父様にご報告しておくから。立派なナースになられて、素敵な恋もされて、名前の通り、お綺麗で素直でいらしたって…」
小さく笑う彼女の細い肩を抱きしめて、ぐっと泣くのを堪えた。
(一日でもいい、一時間でもいいから、この人を生かしてあげて…)
子供でもない、孫でもないけど、彼女の側にいて同じ時を過ごしたい。
一人じゃないんだと、寂しくないんだと彼女に伝えたい。
(そうすることで、心の中に陽だまりが作れたら…)
そんな願いも虚しく、河本さんの容体は日に日に悪くなっていく。
二十四時間の持続点滴も開始され、とうとう散歩もできなくなった。
「黄疸も出ている。もうあまり長くないかもしれない…」
苦虫を潰すような顔で、境先生が呟いた。黄疸が進めば、死はどんどん近くなる。痛みは日に日に強くなり、鎮痛剤の量も増えていく。
「会話ができるうちに、会わせておきたい人はいるか」
そう聞かれ、真っ先に子供さんの事が思い浮かんだ。けれど、何処に住んでいるのか、さっぱり見当もつかない。
「いますけど、どちらにお住まいか分かりません…」
困る私に、医師の表情も曇る。サマリーには、親族の名前は誰一人書かれていなかった。
「残念だな…」
諦めるように呟く医師の言葉が重く心にのしかかった。何とか子供さんの住所がわからないだろうかと、彼に相談した。
「住んでた家の近所の人に聞いてみたら?何か知ってるかもしれないよ。あと、定年後、勤めていた開業医にも」
探すなら手伝うよと言う彼と一緒に、住んでいた住所を訪ねた。ご近所の方は誰も、河本さんが入院していることを知らなかった。
「てっきりご旅行へ行かれたのかと思ってました」
留守の間、管理を頼まれた隣人は、河本さんの事をこんなふうに言っていた。
「物静かで上品な方ですよね。長いこと看護師をされてたなんて思えないくらい。でも、仕事にのめり込み過ぎて、結婚生活が上手くいかなくなったって言ってましたね。子供さんのこと?さぁ…聞いたことありませんけど…」
詳しい事は知らないらしく、結局、情報はそこで途切れた。
「親子の縁って、儚いもんだね…」
納得のいかない顔で彼が言う。塞がっていく道に、心が折れそうだった。
「あと一箇所、行ってない所があるから、そこ行こっ」
なんとか気持ちを奮い立たせて向かった先は、定年後、河本さんが勤めていたという開業医。医師は息子さんの代に変わってはいたけど、河本さんのことはよく覚えておられた。
「彼女には随分お世話になりました。子供さんが僕と同い年だと言われ、ホントの息子のように可愛がってくれて…。そうですか…お体の具合が…」
話を聞いて、医師は残念そうな顔をした。
「先生は、河本さんから子供さんの事を何か聞いていらっしゃいませんか?」
必死な表情で尋ねる私に、医師はなんとも言いにくそうだった。
「すみません…僕は何も聞いたことがなくて…」
頼みの綱が切れ、気が遠くなりそうだった。
「でも、何か手がかりになるような物を探してみますので、どうか気を落とさずに…」
よろしくお願いしますと、何度も頭を下げ外に出た。
今にも泣き出しそうな私の肩を、彼が強く支えた。
「…やるだけの事やったんだ…後は信じよう…」
そう言われ、涙が零れた。結局何も出来ずに終わってしまったのが悔しくて、歯痒くて仕方なかった。
「こんなの…酷過ぎる…」
ナースとして、沢山の人の事を助けてきた筈なのに、唯一の身内にすら会うことができないなんて…。
「神様は酷過ぎる…!」
誓った愛を、貫き通せなかったかもしれないけど、彼女には彼女なりの理由があった筈だ。
「会わせてあげたいのに…。子供さんに…」
溢れ出す涙と、行き場のない怒り。どうすることもできない現実に、心は深い溝にはまった……。