外来勤務は戦争みたいな感じ。その日も、やっと最後の患者さんを見送った。
「ふぅ…」
大きく溜め息ついて廊下を歩く。そこでシルバーヘアの女性と出会った。
「恐れ入ります。内科はどちらでしょう?」
大きな病院内で、迷子になる患者さんは沢山いる。この方も、そうみたいだった。
「この先を左に曲がったら内科ですよ」
指で指し示す。女性は丁寧にお礼を言って頭を下げた。
「ご親切にありがとう。あなた、お名前なんて仰るの?」
患者さんに名前を聞かれたのは学生の時以来だ。少し緊張して答えた。
「杉崎玲良と言います」
私の声を聞き、きょとん…とした表情を浮かべた。一体どうしたというんだろう。
「もしかして…玲良ちゃん…?」
シルバーヘアの上品な女性が、疑うように私を見た。何処かで会っただろうかと首を傾げた。
「覚えてらっしゃいませんか?私、河本です。お小さい頃、ホスピスでお会いしましたね」
にっこり微笑んで名乗られても、すぐにピンとは来なかったけど…
「清花様の孫娘さん、お元気でしたか?」
その名前を聞いて思い出した。優しそうな雰囲気には、なんとなく覚えがあった。
「まさか、あの時の看護師さん…?」
思い浮かぶ遠い日。ホスピスの一室で、泣きじゃくっていた私の心を救ってくれた人…。
「こんな所で会えるなんて…本当に奇跡のようですね」
深くて優しい声。変わらない穏やかな瞳…。
ぎゅっ…と力強く、手を握られた。
「ご立派になられて…嬉しい限りです…」
懐かしそうに微笑む。その花のような笑顔に、思わず飛びついた。
「ずっと…会いたかった…!」
いつか、この人に会ったら、あの時のお礼を言おうと思っていた。
貴女を目標に、頑張っているんだと言いたかった。
(なのに胸がいっぱいで…)
珍しく泣いている私を見て、同僚達が驚いている。でも、彼女だけは、あの日と同じく受け止めてくれた。
「泣かないで…玲良ちゃん」
子供のように、肩をさすってくれる。この人の手は、何故こんなにも慈愛に満ち溢れているんだろう。
「私の顔を見て…笑ってるでしょう…?」
顔を覗き込み、笑みを浮かべる。溢れ出しそうな涙を堪えるようにして。
「…はい…」
鼻水と涙、啜りながら頷いた。ここは外来。ナースの私が、涙を見せてはいけない場所。
息を整え、顔を上げた。その様子に、河本さんが安心したように息をついた。
「今日はね、再検査に来たの。先週受けた人間ドックで、悪い所が見つかったから」
不安気な様子も見せなかった。大した事はないからと笑って話していた。なのに…。

「ステージⅣ…?」
信じられない事実に言葉を失った。外科の担当医、境医師は、渋い顔で頷いた。
「よくこんな状態で日常生活を送っていたと、感心させられる程だよ」
デスクの上に貼られたX線画像。黒い病巣が目の前に大きく広がっていた。
内科から回されてきた患者リストの中に、河本さんの名前があった。嫌な予感がして、先生に病状を尋ねた。
「河本さんは…この事を…ご存知なんですか?」
震える声で聞いた。先生は重く、困ったように首を縦に振った。
「違和感を、ずっと感じておられたらしくてね。痛みもある…」
首をひねり、画像を見つめる。手の施しようがないのは、ナースの私でも理解できる状況だった。
「もって半年…いや、もっと短いかもしれないな…」
先生の声に、身体が震えた。ぎゅっと手を握りしめ、辛うじて立っているような状態だった。
「即入院してもらって、今後の方針を決めないとな。…杉崎さん」
「…はい」
「君、この患者さんと知り合いなんだろう?話し合いに立ち会うかね?」
そう聞かれ、一瞬迷った。家族でもない私が、その場に立ち会ってもいいのか本気で悩んだ。でも…
「いさせて下さい…」
何もできないかもしれないけど、せめてその場にいて、気持ちを分かち合いたい…。
彼女を知る者の一人として、一緒に考えたい。
河本さんの限られた時間の使い方を…。
「…よし!じゃあ一緒に考えていこう。この方の終末期が、最高のものとなるように」
医師の言葉に、きゅっと唇を噛みしめた。
最後の瞬間まで、ずっと寄り添っていけますように…と心の底から願った…。

「はぁ…」
ベッドに転がると、身体が鉛のように重かった。
「ステージⅣか…」
ガンの最終ステージ。ガン細胞はリンパを介し、他の臓器へ転移している状態。それは間違いなく、死を宣告されたも同じ。
(あの河本さんが…)
この間会った時、弾けんばかりの笑顔を見せてくれた。なのに、こんな大変な病を抱えていたなんて…。
やりきれない思いが広がる。
河本さんの事を考えると、居ても立ってもいられないような気持ちになってくるのに、自分は何もしてやれない…。
無力で情けなくて、泣きたくなってくる。
今、誰かに支えてもらえたら、誰かに話を聞いてもらえたら…。
そんな弱さが頭を過る。話したい相手はいるけど、心はブレーキをかけてしまう。
こんな事を言ったら…声を聞いたら…会いたくなる…。
なんとか一人で我慢しよう。そう思ってみたけど…。
「ダメだ…やっぱり一人でなんて、抱えてらない」
スマホを片手に文字を打つ。文字なら自分の表情は伝わらない。
“なお君、今日、私の大事な人が末期ガンだとわかったの…”
そういう始まりで打ち出したメール。なるべく淡々と、簡単に事情を説明しただけだったのに。

「大丈夫?」
電話通り越して、彼が来た。
「こっちこそ、大丈夫なの?…」
研修中だよね?レポートあるよね?と、確認したくなった。
「へーき。レイラさんの様子確認したら、すぐ帰るから」
そう言いながら靴脱いで上がって来る。こっちは心の準備が出来てない。
「…で、質問の続き。レイラさん、大丈夫?」
床に正座。なんで畏まる?
「大丈夫よ。メールの通り」
淡々と感情を表に出さずに打ったよね…と、文面を思い返していた。
「そうだろうけど、明らかに変だと思ったからここへ来た」
なんだか釈然としてない。こっちは彼に心配かけまいと、すごく迷いながら文章打ったのに。
「変なことないよ。ホントに大丈夫。安心して」
必死で笑顔作った。内心ハラハラしてるけど、それを彼に悟られるのは恐い。
ぶすっとした表情でこっちを見てる。その彼が急に立ち上がった。
「これ見て」
差し出されたスマホの画面。見たことない男性の写真が提示された。
「お父さん?」
あまり似てないな…と、思いながら聞いた。
「違う。いつか話した子供の頃、世話になった医師」
「…この方が?」
食い入るように画面を見つめた。中年太りの体型で、豪快に笑ってる。手に持っているのは徳利。どうやら、お酒好きだったのは本当らしい。
「この人、肝硬変で亡くなったんだ。僕が大学三年の時だった」
悔しそうに話し始めた彼の顔を、見ずにはいられなかった。
今にも泣き出しそうに声を震わせてるその姿が、今の私と重なった…。