「目を閉じても臓器が見える…」
案の定と言うか、やっぱりと言うか。

「大丈夫?」
顔覗き込んだ。

「少し横になって休んだらいいよ」
ベンチを開け渡し、水道の蛇口に走る。解剖のあった日の帰り、公園で時田君と待ち合わせしていた。

「ハンカチ、目の上に乗せるよ」
声かけてから置くと、ホッとしたように息を吐いた。

「サイコー。気持ちいい!さすが白衣の天使!」
大袈裟な表現。でも嫌いじゃない。

「ついでに膝も貸してもらえませんか?ベンチじゃ頭痛くて」
おねだりか。年下の特権みたいなもんだね。

「いいよ…」
上半身起こして席を空けてくれる。その隙間に滑り込んだ。
ゆっくりと膝に乗る頭。意外に髪が硬い。

「いい気持ち。疲れ取れそう」
口元が嬉しそう。やって良かった。

「レイラさん…」
ドキッ!
実際に名前で呼ばれたの初めてで驚いた。

「な、何 ⁈ 」
ドギマギしてる。恋愛は初めてでもないのに。

「情けなくてすみません」
謝罪から始まった。

「こんな事も乗り切れなくて、自分でも悔しいんですけど…」
そんな事ないよ…。言おうとしたら続きがあった。

「慣れますから。絶対!」
決意表明?何の為に?

「だから…呆れないで下さい」
あっ、そういうことか…。

「大丈夫、ちっとも呆れてなんかないよ」
「ホントですか?」
ハンカチ除けて私を見た。

「うん。私も駆け出しナースだった頃、同じように気分悪くなったし、夢にまで見てうなされた口だから」
思い出し笑い。今はもう当たり前の日常になったけど。

「誰でも同じなんだって。最初は」
偉そうな言い方。ちょっと癇に障るかも。

「なら安心した」
ホッとしてる。単純な人で良かった。
ハンカチを目の上に戻し、大きな溜め息をつく。
彼の態度がいちいち可愛く思えるなんて、自分の方が上だと思ってるような証拠だ。

「レイラさんは、なんでナースになろうと思ったんですか?」
唐突な質問。話してなかったっけ。

「子供の頃にね、大好きだったおばあちゃまが癌になったの。末期でホスピスに入ってて。お見舞いに行ったら、丁度亡くなったばかりで…」
大きな窓のある部屋の中で見た光景。皆の泣き顔と祖母の顔。対照的だったのを覚えてる。

「ショックで悲しくて大声で泣いてたの。そしたらそこの看護師さんが優しく宥めてくれて。おばあちゃま、私のこと、いつも自慢してたよって。まだ小さいのに親元から離れて寮で生活してて、勉強もよく出来て、美人で我慢強いって言ってたって。背中をトントン叩きながら教えてくれたの。おかげで、気持ちが救われた…」
将来何になるかなんて、決めてなかった頃だった。でも、この日以来、人の心を明るく照らすような仕事に就きたいな…って思った。

「大学部進学の時、選択枝の一つに看護科があって、ナースになるのもいいなって思ったの。あの日の私のように、泣いてる人や困ってる人を助けられたらな…って。それが始まり」
懐かしがる目線の先に、おばあちゃまの笑顔を思い出してた。

「時田君は?どうして医者を目指すことにしたの?」
実家は確か、病院じゃなかったハズ。

「僕、虚弱児で…」
思いがけない言葉に耳を疑った。

「肺が弱くて病気になりやすい体質で、赤ん坊の頃から入退院ばかり繰り返してたんです。幼稚園に通い出しても、いつも真っ先に病気をもらってくるような子供で、大人達の厄介者みたいな存在でした」
笑いながら言ってるから、どこまでがホントか知らないけど、身体が弱かったのは事実らしい。

「いつも入院すると、医師が常連患者の僕に言うんです。『世の中には、治らない病気の人もいる。でも君の体質は、いつか必ず良くなる。だから焦らなくて大丈夫。今がどんなに辛くても、先は明るいぞ』って。その言葉が何よりの薬でした」
退院しては病気になり、重症化しないうちに入院してを繰り返す日々の中で、その医師の言葉だけが頼りだったそうだ。

「先生は僕に『大人になったら医者になれ。お金儲けもできるし、人助けもできる。何より君は病気になった人の気持ちが分かるだろうから、きっといい医者になれるぞ』と仰って…。でも、本人は三年前に亡くなりましたけどね。酒の飲み過ぎが原因で」
悲しい話なのに、どこか面白く話そうとしてる。場の雰囲気が暗くならないように…?

「その先生の言葉通り、医者を目指す事にしたの?」
自分の膝に頭を置いてる人に聞いた。少し黙ってた彼が、ハンカチを目から離して答えた。

「うん。恩返ししたくて」
それまでと違って、真面目な雰囲気だった。こんな近くで見る彼の顔が、いつも以上に大人に見える。
ドキドキしてくるのを押さえながら、そう…と呟いた。

「レイラさん…」
視線を逸らさず、彼が私を見てる。その口が、重い気持ちを切りだした。

「僕はまだ、インターンを始めたばかりで、貴女に追いつくことも、一人前になることもずっと先になりそうです…」
分かりきった事を今更のように話す彼の意図することが分からなくて、黙って聞いていた。

「実際、一人前になったからと言って、貴女に追いつけた事にはならないと思うし、良い医者になれるかどうかも自信ないです」
弱気な言葉を吐く彼を見てると、こっちの方が暗い気持ちになる。
まさか、もう別れ話をするつもりじゃないよねと、確かめたくなってきた。

「それでも…待っててもらえますか?僕のこと…」
不安そうな彼が心配してるのは、もしかして、私の気持ちが変わること…?

「待たないって言ったらどうするの?」
意地悪な質問ぶつけてみた。たじろぐ彼の視線に少しムカついた。

「ずっと待っとく…て言うのは簡単だけど、嘘になったら嫌だから…」
こんな事、付き合い始めてすぐに聞くことじゃないんだと彼に教えたかった。

「あんまり待たせすぎないで。時田君が立派な医師になるよう、私も協力するから」
怒ったような顔して言ったかもしれない。でも正直、ずっと待ってなんかいられない。
(私の方が年上なんだもん…)

「いい?」
念押し。最低だね、私。

「い…いいです」
覚悟を決めるように返事してる。ナースと付き合うって大変なんだから。
偉そうにしてしまう自分が嫌になる。これだからいつも嫌われる。

「ごめん…」
やっぱり駄目…この人にだけは、本音を言いたい。

「私、言い方きつかったよね…。次から気をつける…」
深く反省。ついでに涙まで出てきそう…。

「レイラ…」
呼び捨てた彼が、私の手を握る。温もりを貰うのは、いつも私ばかりだ。

「尚樹くん…」
初めて名前で読んだ。彼が目を見開き、起き上がった。

「泣かないで。もう一度、名前で呼んでほしい」
顔が近づく。髪に手が触れ、頬を包み込んだ。

「尚樹く…」
塞がれた唇に温かさが伝わる。これ以上ないくらいの幸せ。この瞬間をずっと、忘れずにいたい……。

………本当の自分は、積み重ねてきた時間の中にいた。
移り変わってゆく季節の中に、巡り合ってきた全ての人々の心の中に、自分は生きてる。
素直な心で、それを受け止めよう。幸せという名の今を、生きる為に………