彼女の声に軽く手を挙げて応え、店を後にした。

「週末の会議にはフェイバリットにデリバリーを頼みましょうか」
「…そうだな」
「メニューは多めに頂いてきましたから、フードもオーダー出来ますよ」

用意周到な苅谷はいつの間にか持ち出し用のメニューを持っていた。そう言えば苅谷が中に入って来た事は初めてだ。大抵は電話で済ませるが、今日は隣に座って飲んでいた。

「今日に限って珍しいな、苅谷」
「店内に入る事はおろか、オーダーした事すらありませんでしたから」
「…何を考えている?」
「社長の片想いが二十日になったので、一度直接会ってみようかと思いまして」

…よくそんな事まで記憶出来るものだな…秘書になるにはそんな技能まで必要なのか?

「明日からは久々の連休ですから、ごゆっくりお過ごし下さい」

自宅マンションのエントランス前で降りると苅谷にそう告げられた。貴重な連休だ…ゆっくりするか。

折角の休みだと言うのにいつも通りに目覚めてしまい、損をした気分になる。惰眠を貪ろうとしたが微睡みも出来ず、諦めて外出する事にした。
愛車を走らせて無意識に着いたのはフェイバリット…ついでに寄るか…。

「今日は仕事じゃないんだな」
「ああ」

木下に迎えられたが嬉しくも何ともなく、更に損な気がした。
いつも通りのメニューに朝食代わりのデニッシュをオーダーする。灰皿をトレイに乗せて喫煙スペースに向かった先に視界に入った姿に、俺の気分は急上昇した。

「おはようございます、いらっしゃいませ」
「…ああ、おはよう」

彼女が私服姿でマグを片手に微笑んでいた。早起きは三文…いや千両の得だな。

「ここ、空いてるか?」
「はい、どうぞ」

さりげなく向かいの席を陣取る。

「今日はお休みなんですか?スーツじゃないのは初めてですね」
「君はこれからか?」
「いえ…実は……」

気恥ずかしそうにはにかむ表情が何とも言えず可愛らしい。

「出勤日を間違えてしまって…今日は休みだったんです」

慌てて家を出た上に間違えてこんな早く来てしまい、する事もなく、とりあえずここで朝食を済ませようとしたらしい。仕事のつもりだった今日の予定を必死で練っているようだ。
これは千載一遇のチャンスではないか?きっとこの先、こんな機会はないだろう。

「よければ俺とデートにでも出掛けないか?」
「え?」
「俺もする事もなく何となく習慣で立ち寄ってしまって、休日を持て余しているんだ」
「え…と…」
「俺みたいな男でよければだが…彼氏に悪いか?」
「そんな…彼なんていないですけど……」
「…ああ…すまない、強引すぎたな…気にしないでくれ」

これ以上は無駄か…店でぎこちなくされるのも困るからな。

「あ…あの…」
「ん?」
「私…私で、よかったら……」

頬を赤らめて俯き加減で見上げられ、俺は早起きした自分に感謝した。

「そうだ…俺は巽省吾、三十四」
「相模呉羽、二十四です」

互いに少し気恥ずかしくて、けど名前や年を知れた事が純粋に嬉しかった。
彼女は俺がデニッシュを平らげるのを待ってくれた。彼女が持とうとしたトレイを手にすると、申し訳なさそうに俺を見上げた。
彼女と二人並んで店を出ると、木下が客捌きも忘れて驚いたように俺たちを見送っていた。
少し歩いた先に停めてあった車の助手席を開けて手を差し出す。恥ずかしそうにその手を取って乗り込む彼女がきちんと座ったのを確認して、殊更丁寧にドアを閉める。
運転席に回って乗り込むとゆっくり車を発進させた。

「どこか希望は?」
「あ…すいません、特には……」
「それなら少しドライブでもしながら考えようか」
「はい」

郊外に向けて走りながら、彼女とは私生活から仕事の話までいろいろと喋る事が出来た。