「わしは、好きじゃよ。雨は何もかも洗い流してくれるような気がしてな…身内に広がる因縁も、その後ろに隠し持ったナイフにこびりついた血、なんかもな…」

「……!?」



 老人の言葉に、ミサトのナイフを持つ手が震えた。

 たった今“仕事”を終わらせてきたばかりのこの手は血にまみれている。

 この手は今までに、どれだけの血に染まってきたのか。

 もちろん、見た目にはわからないが…それを見抜いたこの老人は一体…?

 ――…いや、たった一人だけ、心当たりがあるのかもしれない 。

 だが、その読みが当たる確率は、限りなくゼロに近かった 。



「まぁまぁ」



 老人は苦笑する。



「そんな怖い顔をしなくてもいいじゃろ。ま、わしももう長く生きてるもんでな、死ぬのは別段、怖くはないが…」

「あたしは、組織の中で生きてるの。命令がなければ、自分からは動かないわ」

「そうかそうか、こりゃ、命拾いしたのぅ!」



 老人は、大声で笑う。

 最初と変わらずに、殺気は微塵も感じられない。

 この後ろ手に隠したナイフに気付いていながら何故、この老人は自分に近づいてきたりするのか。



「おじいさん…何者なの?」

「わしも裏稼業をやっておる。同業者ならわかると思うが 、見知らぬ人間に本名を名乗るのはとんでもないバカか、 とんでもない自信家かどっちかだな」



 老人は傘をベンチの脇に立て掛けるとタバコを取り出して、火をつけた。



「…ま、その裏稼業も明後日で引退するんじゃがの」

「そしたら、どうするの?」



 ミサトは聞いた。



「そうじゃな…小さな酒場でも経営しようかと思ってるんじゃが…。酒が好きなモンでな。そうじゃ、住所を書いておくから、機会があったら尋ねなさい。あんたも酒、好きなんじゃろ?」



 老人はそう言って、小さなメモ用紙に何かを書いて、ミサトの手に握らせた。



「もしかしておじいさん、あたしのこと知って…?」

「さぁね…」



 老人は意味深な笑顔を浮かべる。

 手渡された住所は、アジアの有名な貿易都市のものだった。

 そのメモから目を上げると、老人は立ち上がって、ゆっくりと歩き去 っていく。



「ねぇ…あたしも、雨、好きだよ!!」



 その後ろ姿に、ミサトはそう声をかけて。

 改めて、メモを見る。




『AGORA』




 一番下には、そう書いてあった。