「千奈美!」


 啓子の家を飛び出して、私はマンションの廊下を走る。


「いっしょに、帰ろ……!」


 エレベーターに入る千奈美の後ろ姿を見つけて、閉まりそうになる扉を手で押さえる。
 挟まれるかもっていう怖さはなかった。

 千奈美はエレベーターに乗り込んでくる私を一瞥しただけで何も言わない。
 嫌とは言われない。

 私はエレベーターの扉を閉めて、一階のボタンを押す。
 ゆっくりとエレベーターが降下していって、私は千奈美と二人っきりになった。


「千奈美、私だったらいいんだよね? だったら、教えてくれないかな……」


 おそるおそる千奈美の横顔をうかがうと、ゆっくりと首を回して私を見返す。


「朋ちゃん……私の初体験、教えてあげよっか」


 千奈美は血の気が失せた白い顔で、微笑んでいた。

 心臓が冷たくなるような感じがして、なにも返せない。
 それでも千奈美は、話し始めた。


「私のハジメテって、公衆トイレなんだよ。駅の、多目的の、広いトイレあるでしょ。あそこ」


 千奈美の微笑みは、自嘲だった。


「夏樹くんにヤらせろって言われて……付き合ってるんだから当たり前だろって、みんやヤってるって。ヤらせてくれないんなら、別れるみたいなこといわれて……頷いちゃった」


 千奈美のまつ毛が震えている。
 涙がぷっくりと瞳の上に膜を張って、それでもこぼれ落ちない。


「高校生でホテル行けないし、行けても高いからイヤだって。家は親がメンドイし、カラオケとかマンガ喫茶は完全な個室じゃないし…‥だったら、まだ鍵かけれるトイレの方がマシかなぁって」


 横を向いたまま、震えた手が私の袖をつかんだ。


「でもやっぱり嫌で、怖くて、泣いちゃって……でも、大丈夫だってやめてくれないし。ゴム持ってないけどいいだろって、ない方が痛くないし気持ちいいだろって言われて……でも痛くて痛くて血も出て怖くてやめてって言いたくても痛くて声が出なくて」


 聞きたくないような言葉に、それでも私は耳を塞げなかった。


「デートのたびに、そんな感じ。会うのが怖くて、でも会いたくて……逆にそういうのがないままデートが終わったら、なんか怒らすようなことしたんじゃないかって不安になって」


 そっと手を握り返すと、千奈美はしゃがみ込んでしまった。


「夏樹くん、わたしがハジメテじゃなかったみたいだし、かなんか病気もらってるかもね。そうじゃなくてもトイレなんて不衛生だし、私、妊娠じゃなくて病気なのかも」


 うずくまって、それでも涙は流さなくて、私の手を握り締める。
 私はどうしたらいいかわからなくって、その手を握り返すことさえできなかった。

 啓子は千奈美を叱ったけど、私にはそんなこと言えない。
 ほとんどレイプされたようなものじゃん。