どんな女が嫌いかといって、出来もしないくせに仕事が出来るぶっている女ほど嫌なものはなかった。言われたことしかやらないくせに、さっさと仕事を終わらせることしか考えていなくて、ちょっと面倒くさいことが重なったらどうせ結婚や家庭に逃げるくせに。
 野瀬遥がそういう人物だと決まったわけでもないけれど、担当が替わって間もない数ヶ月に度重なった出来事は嫌でも万理央に嫌な女のイメージをちらつかせた。

 梅雨が明けたのにどんよりと曇っている空の下を万理央は黒いボタンダウンのポロシャツに汗をにじませながら歩いていた。万理央はいつも入っていくビルの前を通り過ぎて、ビルの裏へと向かう通りを迷わずに歩いていった。

 古びた喫茶店の今日のランチはハンバーグとエビフライのセットだった。銅のベルを鳴らしてドアを開けキッチンから指された中ほどの席に座った。アクリルのメニュースタンドに手書きのランチメニューが挟まっていた。万理央は手に取って眺めたが、やはり今日のランチにしようと決める。大きな氷のキューブを鳴らせて女性がオーダーを取りに来た。万理央が「今日のランチとアイスコーヒー」と手短に言うと女性はニコリともしないで「今日のランチとアイスコーヒーですね」と声だけは感じよく繰り返してキッチンへ引っ込んで行った。
 窓際で歳の離れた二人のOLがにこやかにランチを食べている。窓の外を見ようとすると、その二人が目に入るのであまりじろじろ見るのも悪いか、と思い鞄から読みかけの文庫本を出した。

 万理央の背後の席で男女が少し言い争いをしているらしかった。男性がわざとらしいため息をついて「いい加減にしろよ」と言ったのが聞こえた。女性の方が万理央の背中側の席にいるらしく遠慮がちな声で応戦してしていた。

 『…大体今日だって休みのだんなを自分の会社の近くまで呼び出すなんて普通じゃないだろ?』
 『でもそれは、タカユキが話そうって言うから…』
 『とにかくさ、仕事したいなら仕事してもいいけど、家の事もヒナタの事もちゃんとやってよ。仕事を言い訳にして俺に振らないで。俺だって普通のサラリーマンじゃないんだからさ。』

 『本当にさ、俺の給料で十分やっていけるだろう…?どんな贅沢をしたいの?』
 『贅沢をしたくて仕事してるわけじゃ…』

 「お待たせしました。」
 ハンバーグとエビフライのランチが来た。ぼんやりとそれを口に運びながら、万理央は短かった自分の結婚生活と元妻と再会した同窓会での友人達を思い出していた。

 少しずつ幸せが遠のいていくように感じる、そんな結婚って何なのだろう。いつか、やりがいとか生きがいとかいう言葉よりも、家族の為にという御旗を振って、いやいや仕事をすることになるのだろうか。たった一人、幸せにすると誓った女を幸せにすることができないのに、続けていく結婚、社会に貢献する仕事、いったい何なのだろう。
 だからといって、いつまでも一人で生きていくのだろうか?気楽でいい。好きなときに好きなものを食って、休みの日には好きなだけ寝て、ゲーム三昧で読書三昧でも誰も文句を言わない。自分以外の誰かを幸せにする事ができないとしても、少なくとも自分のことを幸せにすることはできる。それでも、たった一人で生きていくなら、
 ──俺が生きている意味はあるのだろうか。

 あの同窓会は自分の人生を考えたひとつの節目になった出来事だ。人生とか結婚とか色々考えた。ただ恋をしてただ与えつづけられるものを受け取るだけでよかった学生時代という人生の一時期を共にした相手に大人になって再び出会い、結婚は間違いだった、いや、間違いではなかったと、語り合う同級生達の中で、希望に満ちていた二人。
 彼女なら、と思った。俺だけは違う。彼女を幸せにできる。きっと。──そう思ったはずなのに。どこで間違ったんだろう?

 背後のテーブルの男女が万理央のテーブルの横を通って行った。通り過ぎていった女性のワイン色の時計に見覚えがある。見上げて見ると、レジで支払をしている男性の少し後ろに立っているのは野瀬遥だった。白いノースリーブのシャツと黒っぽいロングのタイトスカート。こうしてみると二の腕もおなかの辺りも記憶していたよりふくよかだ。ハンドバッグを持ち直して、その時そっと右手の親指で左目の縁を撫でた。

 目を逸らすことができない。野瀬は背筋を伸ばして男の後について喫茶店を出て行った。中肉中背の男性は自分と同じ歳くらいだろうか。神経質そうに眼鏡をおさえた仕草はいかにも先程妻を詰っていた言葉通りの男だという気がした。いかり肩を少し前にかしぐようにして歩いて行く。そのほんの少し後ろを歩く野瀬の横顔は頑なに厳しかった。肩に掛けたバッグの肩紐をぎゅっと握り締めるようにしていた。

 (結婚してたか…しかも…コブつき…)

 小さな拳銃でなんどもなんども打たれて穿たれたように万理央の胸が痛む。それは、自分の生き様を考えたからなのか、終わった恋を思い出したからなのか、それとも、始まりかけた恋の終わりを思ったからだろうか、それとも、彼女が詰られていたから?


 やりがい、いきがい、幸せ、結婚生活、独身貴族、そして、犠牲。
 何かを犠牲にしないと、人は、生きていけないんだろうか?
 何かを犠牲にしないと、人は、幸せになれないのだろうか?
 仕事も、恋も、結婚も、人生も、何もかも。