土曜日も、日曜日もない。そう。だけれど、世間は週末の都会へ出て行くのに、それほどカッチリした服装でもなかろうと、冴えない頭で考えた万理央は、襟元にカウボーイのようなバンダナがプリントされたクルーネックの白い長袖のTシャツを着た。青いコードレーンのパンツを合わせて薄い水色のカーデガンを持って出た。爽やかな服装の割りにはゲームに熱中しすぎて少し寝不足気味でなんとなくかったるい。

 隠し扉の場所がどうしても思い出せなかった。何度も見つけて来たはずのドアだった。その扉を開けたら、どんな道がどうやって延びているかも覚えている。その道の先に見えるものも、何となく覚えているのだ。その扉の形も、扉の色や素材も覚えているのに、どうしてもその扉がどこにあるのかを思い出すことが出来なかった。
 広い庭の築山の向こう、城の裏側の小さな橋、まだ水を湛えていない堀の下、あるいは、裏庭から続く迷路のような生垣の中…。何度も何度も行き来して、この際、こんな所にあるわけがないと思う場所までつついてみたけれど、どうしても見つける事が出来なかった。

 週末の朝のバスは空いていて、万理央は後部座席に座りながら、頭の中で何度もその道を辿った。メガネをかけた蜂に誘われて潜った門から、遠くに望む城を追いかけるように走る道。右手に広がる大きな庭と築山。その築山を滑るように降りて、左に広がるバラの小道に入る。兎が三羽、小太りの男を見て散るように逃げていく。生垣の小鳥が逃げる。「ほら、あの男よ?」と言う様に。バラの生垣を通り抜けると、そこには木の杭が5本あって、これは、ある扉の中のダンジョンでスイッチを押さなければ動かない秘密のロックで、このロックを解くと、もうひとつ扉が開く。それから、クルクルと回りつづけているおもちゃのような簡易エレベーターに乗って、城の裏への近道だ。右に行くと城。左に行くとそこにはクローバー畑があるけれど、あそこはもう何も無い。絶対に何も無い。城の裏へと続く細い路地の入り口に、門番をしている魔法の食虫植物が居て…あいつを眠らせるとその下にある鍵を取れるけれど、その為にはもう少しゲームを先に進めて、とある虫を捕まえて来なければならなくて… ──そうやって、ゲームの中の道を頭の中で辿りながら、万理央は眠りに落ちて行った。もうあと15分もすればターミナル駅に着く。そこから週末の空いた地下鉄に乗り換えて、そして、打ち合わせだ。野瀬遥に会う。


 土曜日の人気(ひとけ)のない編集部の打ち合わせ室の一室で、万理央は眉を潜め唇をぐっと結んで黙り込んだ。打ち合わせ室の白いテーブルの上にポンとためし刷りの紙を放る。野瀬遥は言葉だけは丁寧だったが明らかに不満そうに少し眉毛を寄せて万理央が放った紙の端を寄せてトントンと耳を揃えた。謝罪の言葉はもちろん、善処する、という言葉もない。言うべきことは言った万理央はインサートカップに入ったコーヒーをぐいっと前に押しやると「ご馳走様でした!」と小さな声で乱暴に言い放ち、殆ど椅子を蹴っ飛ばすようにして立ち上がると、隣の椅子に置いたナイロンバッグを手にして部屋を出て行った。
 「ちょっとッ…小林さんっっ」
 野瀬が慌てて立ち上がって万理央を振り向いて声を掛けるが万理央は聞こえているけれど振り向きもせずにエレベーターホールへ向かった。背後で打ち合わせ室のドアが閉まる前に、野瀬は小走りに万理央を追いかけてくる。
 「小林さんっ、困ります、小林さんっ!」
 それでも、万理央は振り向かない。エレベーターの下行きボタンを押した右手をポケットに突っ込み、イライラとエレベーターの階数ボタンを睨みつけた。
 「まだ、打ち合わせが…」
 「終わりましたよね。その部分が直らないなら僕は自分の絵をそちらに使って頂きたくありません。事情はよく察しています。技術的な問題があって、どうしようもない事もあることくらいは知っています。僕だって昨日今日こちらのお仕事をさせていただいている訳ではないんですから。でも、今回のはそういう問題じゃないし、こういうことを何とかするのがあなたの仕事でしょ?少し勉強してみてください。右から左に言われたことを伝えるだけの仕事だったら、あなたなんか必要ないよね?」
 言い過ぎた。すべてを口にし終わった瞬間にそう思ったけれど、もう遅いし言うべきことは言った方がいい。相手がこんなことも分らないような奴なら特に。

 週末のこの編集部のフロアは比較的穏やかだ。静かなエレベーターホールにエレベーター到着の「チン」という音が響く。
 言い過ぎたことを謝ろうか?一瞬だけそう思ったけれど、万理央は俯いた頭を上げて、開いた扉の箱の中へと入った。呆然とエレベーターの昇降口付近を見詰めていた野瀬遥は、扉が閉まる瞬間に我に返ったように扉の中の万理央を見あげた。その一瞬だけ目が合って扉は容赦なく閉まり、万理央は閉まった扉に張り付いているように万理央にだけ見える野瀬遥の瞳を見詰め続けた。

 「チン」と音が鳴ってエレベーターはロビーに到着する。鍵の見つからない扉。開かない扉の鍵。万理央の頭の中で目尻の皺を見せて笑った野瀬遥がすっと背を向けて扉の中へ消える。鍵の見つからない扉はなぜか透明で、野瀬遥は扉の向こうでこちらを振り向くと、エレベーターホールで万理央を見た哀れに途方に暮れている野瀬遥の顔をしていた。