ボタンホールが黄緑色の糸でステッチされたシャツは、最近の万理央のお気に入りだった。遠くから見ると白いシャツに見えるけれど近くで見ると薄いオレンジ色と黄緑色のピンストライプだ。そのシャツの上に紺色のニットブレザーを着る。黒いナイロンのビジネスバッグの中で、ワークファイルとCDロムがカシャカシャと鳴った。時間的に余裕はあるけれど、目の前にバスや電車が止まっているのを見送れるような悠長な性格ではなかった。
 
 (やっぱり純正のイヤホンがいいな。)
 と、白いイヤホンコードを丁寧に解きながら万理央は思う。音がいいし、手元で操作できるという機能性はやはり純正ならではなのだ。バスや電車で聴くのは大概騒々しいくらいの音楽だった。ロックやポップス。静かな音楽は仕事の作業中によく聴くのでその反動かもしれない。読みかけの本があれば、本を読むこともあった。ゲームは家の中だけと決めているから外ではやらない。バスは旧いバス通りから大きい街道に出る。万理央はイヤホンコードについたリモコンを押して音量を少し上げた。

 終点はJRのターミナル駅のロータリーだ。万理央は地下道には入らずにロータリーを渡って駅に入った。春の匂いがする。新しい鞄の匂い。新しい靴の匂い。芽吹く緑の匂い。こんな都会のど真ん中でも、確かに芽吹こうとする緑の匂いがするのだから不思議だった。万理央はロータリーを渡りきった向かい側にあるハンバーガーショップの横の小さなコーヒースタンドで温かいコーヒーをひとつ頼んだ。小さな間口のそのコーヒースタンドは忙しく行き来する人々はつい見逃してしまうのかもしれないけれど、万理央はここ最近一番美味しいコーヒーを入れてくれるのはこの店だ、と思っていた。その日はアフリカのフェアトレードのコーヒー豆だった。苦味が少なく香りも控えめでさっぱりした味がした。好みではなかったけれど、やはり美味しかった。
 スタンドの横でゆっくりと飲んで紙カップをカウンターの下に棄てる。先ほどまでの煩雑さにほんの少しだけ色が濃くついたような気がする。たとえば、灰色の駅の屋根を切って向こうに見える青空や、行き交う人々の淡い色のコート、女性が首元に巻いたスカーフ。
 ふぅーっと意識して深呼吸をして、万理央は戦闘開始、という顔をした。ロータリーを渡りながらしまったイヤホンのコードを、ナイロンバッグの外ポケットから取り出すともう一度耳に掛けてほんの少し足早に都会の駅に潜り込んで行った。

 打ち合わせのある出版社のビルの玄関に到着したのは約束の時間の15分前だった。のんびりとエレベーターホールへ向かうと、後から声を掛けられた。
 「小林くん!」
 「あぁ!篠原さん!先日はどうもありがとうございました。久々にお逢い出来て・・・」
 「いやぁ、僕こそ。ずっとご無沙汰していたから、偉くなった先生に挨拶できて嬉しかったよ。」
 「ちょっとっ、止めてくださいよー」
 楽しそうな笑い声がロビーに響く。柔らかい卵色のジャケットを着た壮年の男性は、万理央がまだ学生だった頃、アルバイトとしてイラストを描いていた頃の担当者の男性だった。今はもう編集部の偉い人になってしまってあまり会うこともなかったが先日のバーベキューで久々に再会できた恩人だった。
 「是非またメシでも行こうよね。たまには顔を出してよ。」
 「是非是非!」
 「じゃ!」
 「また。失礼します。」
 万理央は礼儀正しく篠原の背中に会釈をして見送り、逃してしまったらしいエレベーターを階数表示で確認すると、もう一度上のボタンを押した。
 二重扉の自動ドアは滅多に外の空気をビルの中に入れない。だけれどその時、エレベーターホールにサアッと春の風が吹き抜けたのを万理央は感じた。その爽やかさにふと目を細める。その時、背後でエレベーターがチンと鳴って万理央を迎えに来たことを告げたのだった。
 
 それはちょうど、ゲームの始まりで歩く練習をしながら庭を散策し、まだ鍵をもっていない扉の前で鳴らす呼び鈴のようだった。チン、と鳴らすと、中から声が聞こえる。── 鍵ヲ持ッテイマスカ?
 その鍵は、兎が持っている。

 (あぁ!!そうだ。あの兎だ!!)

 万理央は嬉しくなる。その兎だった、万理央があの時に思ったのは。
 
 何台かの車に分かれて到着したバーベキューの会場で、車を降りた万理央が駐車場で背骨を鳴らしていると、先着隊の人の輪の中からぴょこんと一人の女性が飛び出してきた。その女性はパタパタと小走りに万理央の方に向かって来たのだが、その様子は何かを彷彿とさせて万理央はつい笑ってしまったのだった。万理央のまん前でブレーキを掛けるように立ち止まって万理央を見上げて片眉を上げ「んん?」という顔をした彼女、何かに似ていると思った。

 それは、あのゲームの中でヒントをくれる兎だった。兎は二三羽が輪になって中庭やら裏庭やら時には城の中のどこにでもいて、近づいていくと『脱兎の如く』という表現の通りに大概はぱぁっと逃げていくのだが、そのうちの一羽はときどき輪の中からピョコン、と出て来て近づいて来てゲームのヒントをくれたりする。

 (ウサギちゃん、なんていう感じでもねーけどなあ…)

 なんでそんなこと思ったんだろう。そして、そう、それはただの偶然なのだけれど、バーベキューの肉を隣で食らいながら、おそらくはその場しのぎに休みの日の過ごし方なんか訊かれた万理央はつい「ゲーム」と答えて、その答えに彼女は意気揚々としてまさにそのゲームの話をし始めたのだった。