「寒…」
朝晩はまだ肌寒い。万理央はソファーの下に縮こまっている自分の身体の節々が痛いのを感じながらそっと起き上がり、ベッドへ行こうとして何かに躓いた。それは、ローテーブルの下においてあった白いゲーム機だった。省エネ機能で電源がスリープになっている。
 ふと壁の時計を見ると朝5時半だった。万理央はもう一眠りするか、それとももう起きてしまおうか、と考えてのんびり洗面所へ向かった。

 鏡の中の自分に対峙する。
最近少し肉付きがよくなった。学生時代にはあまり好きではなかったけれど今は自分のひとえ瞼も嫌いではない。すっきりした鼻梁。薄い唇はよく薄情者の証だと言われるけれど、本当にそうだろうか。
 万理央はててなし子だ。ばあちゃんに訊くなと言われていたから一度だって自分から母親に父親の事について訊いた事はないが、一度だけ酔っ払った母親が「あんたの父親はイタリア人だったからマリオと名づけた」と言った事がある。それは本当か?とばあちゃんに訊いたら「知らねえ。」と言われてはぐらかされた。それが本当だとしても、どうも自分にはそういうラテン系の血が入っているようには思えない。顔も純日本的だし、性格的にもだ。
 ばしゃばしゃと水で顔を洗う。タオルで顔を拭きながら、鏡に映った男に
 「大丈夫、まだまだ色男じゃねーか?」
 と言った後で馬鹿らしくなって笑った。

 テレビをつけてニュースを見ながら今日の予定を頭の中で組み立てる。家でする仕事なので、打ち合わせには必ず自分から出向く事にしている。そして、外出する日は思う存分外出する。打ち合わせの時間の前後を上手に使って外食やら本屋やら電器屋やらのルートを考えるのが好きだった。
 大体の予定を組み立て終わって、ゲーム機に手を伸ばす。独身でよかった、と思うのはこういう瞬間にもある。好きな時間に起きて、好きな時間に寝る。好きな時間にメシを食って、好きなように本を読んだり好きなようにゲームをしたり出来る。そういう自由さは、独身ならでは、なのかもしれない。

 メガネを掛けた蜂は昨晩からずっとそこに居たらしい。暗闇の中から健気に現れて「どうするの?ゲーム、始めるの?」と訊いている。万理央はAボタンを押して蜂がゲーム機の中に一度様子を伺うみたいに帰っていくのを見ていた。

 蜂がまた現れて、この扉を開けてみて、と誘う。万理央は、この扉の向こうにある世界を知っている。どこに、何があるのか。隠された鍵。隠された扉。何度でも、何度でも挑まなければならない苦難。繰り返すたびにうまくなる高飛びのスキルや、忍び足のスキルも、このゲームをクリアする為に必要なスキルはすべてすでに習得している。飽き飽きするほどこのゲームを繰り返しているのに、なんでもう一度このゲームをやろうなんて気になったんだか。

  『あのゲーム、大好き。どんなゲームをやっても、必ず途中で投げ出しちゃうんだけど、あれだけは最後までやり切ったの。最後にクレジットロールが流れるでしょ?あそこで、私、こんなに頑張ったんだ!!って泣いちゃったんだよね』

 食いちぎった焼肉を箸で摘まんだまま、かつての自分の偉業に目を細めて笑った女を万理央は思い出していた。賢しそうな額をゆるくカールした前髪で隠していた。濃い意志の強そうな眉毛、伏せると長く影が出来そうな睫。くるりとした瞳は少し目尻が上がっているけれど、いつも笑っているから、それほどきつそうには見えないようだった。笑うと少し小じわが出来る。頬に薄く雀斑(そばかす)があった。それから、薄い唇の小さな口を目一杯に開けて肉に喰らいついていた。色っぽくねえなあ、と思うような食べ方だったけれど、やはりなぜかそれが印象に残った。

 万理央は、扉を開ける。
何度でも、このゲームに挑む。その覚悟を決める。メガネを掛けた蜂はにっこりと笑って「こっち、こっち!」と万理央を誘った。