俗世で過ごした、あのめくるめく日々も、今では遠い渚のように思える。

前代未聞、史上最大の凶悪犯罪。

世紀末日本を襲った巨大なうねり。

自分は間違いなくその中心にいた。

松本智津夫。畳職人の両親が付けた名前である。

この名前でも、二十代以上の人間のほとんどは、一度見たら忘れようがない長髪に髭面の顔をすぐに思い浮かべ、「ああ」と頷く。

だが、より知られているのはこちらの名前だろう。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐麻原彰晃‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

宗教団体「オウム真理教」の教祖にして、合計死者数26名、合計負傷者数約7000名を数える「オウム真理教事件」の主犯。

自分はカリスマだった。

全盛期には15000人近い信徒が、自分を崇めた。

億の富をこの手におさめた。

選挙にも出馬した。

テーマソングも作った。

芸能人と対談もした。

新興宗教といえばまずオウムを思い浮かべ

テロリストといえばまず麻原の名を思い浮かべる。

そんな時代が、確かにあった。

いや、現在もそうなのかもしれない。

方の華三法行、パナウェーブ、創価学会。

酒鬼薔薇事件、大坂池田小事件、北九州監禁殺人事件。

どれも巨大な宗教団体であり、巨大な事件であるが、自分が作った団体と、自分が起こした事件のインパクトには、及ばないように思う。

とはいえ獄に繋がれた身では、今現在の自分の世間での評判を知る術はない。

また、興味もない。

死刑判決からは、9年の月日が過ぎた。

当局になにか思惑があるのか、いまだ執行される気配はないが普通に考えれば、もはやいつ死んでもおかしくはない身である。

自分に残された時間は長くない。

自分に何が出来るとも思っていない。

もはや、この終末の世を救う術はないのである。

そう思っていた。

今朝、自分の身に奇跡が起こるまでは。

目が覚めたとき、股間に感じた違和感。

ここ十年ほどトイレは使っておらず、糞尿はおむつの中に
垂れ流しており、今朝もそうしようと思ったのだが、どうも尿がしにくい。股間に手をやってみると、陰茎が痛いくらいに膨張し、熱を発して脈打っている。

朝勃ちである。

57歳、間もなく還暦を迎えようかという自分が、朝勃ちである。

逮捕当時の顔写真、宗教団体の元教祖というイメージからすれば、意外と若いと思われるかもしれないが、肉体的な衰えは日々感じている。

朝勃ちなど、思い出せないほど久しぶりのことだ。

肌にも張りがある。

自殺防止のため、手に届く範囲に鏡はなく、肉眼で目視したわけではないのだが、掌で触れた感覚では、間違いなく若返っている。

食事・・・おかずや汁ものを、全て丼茶碗にぶちまけて飯と一緒にしたものを、誤飲しても安全なでんぷん製のレンゲで食しているのだが、今朝はコメ粒一つ残さず食べても、満腹にならない。人並み外れた大食漢として鳴らした壮年期の食欲が戻っている。

筋力、体力も回復している。

刑務官の目を盗んでヨーガをしたくなるほど、体にエネルギーが横溢している。

いったい、自分の体になにが起きたというのだろうか。

なにかの前兆ではないだろうか。

終末の近づく世を救い、今だ自分を信じる者をニルヴァーナへと導くため。

神の化身たる自分を排除した衆愚どもをポアするため。

シヴァ大神が自分に力を与えたもうたのではないだろうか。

しかし、刑務官の自分を見る目はいつも通りである。

異変に気付いているのは、自分だけなのだろうか。

誰かに確認したいのはやまやまだったが、自分にはそれができない事情がある。

現在、自分は精神病で、意志疎通は不可能ということになっている。

実際、この十年、言葉らしい言葉は一言も口にしてはいない。

面会に現れた実娘の前で自慰行為をしてみたりもした。

書籍にも触れていない。娯楽もたしなまない。

日常生活すら、自分の判断では行わない。

そんな日々を十年も過ごしている。

詐病なのか、本当におかしくなってしまったのか。

自分でもよくわからなくなってしまった。

そんな自分が、突然に明瞭な口調で自分の体調の変化を訴えなどしたら、人々は仰天し、訝しがるだろう。

そして・・・。

死刑執行が早まりはしないか。

恐怖はそこにあった。

廊下から、複数人の刑務官が歩く靴音が聞こえる。

靴音は、自分の房の前で止まった。

食事の時間にはまだ早い。

接見の予定はなかったはずだ。

心臓が跳ねまわる。

なんだ?なんだ?なんだ?

まさか・・・・?

解錠音がして、重い鉄扉が開けられた。

屈強な刑務官たちが、物も言わずに自分の腕をつかみ、無理やりに立たせる。

「嫌だ!行きたくない!助けてくれ!」

思わず、叫んでいた。