益田商店に着いた。配達物を持って、ゆっくりと大股に入って行く。狭い店の中で、皆忙しそうに働いている。
「毎度!」
 大声で怒鳴るように叫んだ。
「あぁ、ご苦労さん」
 部長が仏頂面で答える。俺は、いつものように二階へ運ぶ。そしてその二階には、俺に気があるらしい女性がいる。少し胸をときめかせながら上った。そして又、言う。

「毎度!」
 二度も同じ言葉を発して何をくだらぬことをと思いつつも、いつもそうしている。要するに、「毎度」以外の気の利いた言葉が出てこないのだ。主任からは、お世辞の一つも言ってこいと言われてはいるが、どうにも言葉が出ない。まだ十八歳の若造が、二まわりも年上のおっさんに対して「昨夜の戦果は如何でした? ゴルフは如何でしたか?」などと言えるわけがない。
 第一夜の戦果の意味するところすら、正確には知らない。主任は、そう言えと言うのだけれど。

「配達の折に注文の一つも貰って来い、たまには」
 冗談じゃない! その分の給料は貰ってないぞ。
 でいつもなら、「ご苦労様!」と返ってくるはずが、今日に限って何の返事もない。階段の途中で、鎌首をもたげて覗き込んだ。一望できる仕切りのない作業場には、誰も居ない。返事が返ってこないわけだ。仕方なく、窓から外の景色を眺めた。相も変わらず忙しそうに、車が行き交いしている。車の保有台数は、全国で三番目だと聞かされている。実に多い。この車の台数を半分に減らそうものなら、確実に事故が増えることだろう。断じて減ることはない。俺は確かにそう思った。その理由に、車が多いからこそ緊張し、車が多いからこそこれ以上のスピードが出せない、そう思った。

「ホント、車が多いわね。半分くらいに減ったら、事故も減るでしょうに」
 突然あの彼女が俺に囁くように言ってきた。
俺は、背筋に水が流れるようにヒヤリとした。
「そ、そうですね」
 何と言うことだ、実に情けない。裏腹のことを答えてしまった。自分に腹が立った。しかも、卑屈にもうろたえてだ。昨日までは何も意識していなかった彼女の存在が、今はドギマギさせる。伝票にサインをもらうと、それ以上の言葉を交わすでもなく、そそくさと店を出た。

 空はカラリと晴れ渡っている。何故か、車に乗ることに嫌悪感を感じた。といって、歩いて帰るわけにもいかない。車のエンジンをかけるが、どうもエンジン音が気になる。ついさっきには感じなかったことだ。そのまま出ようと思ったが、どうにも気になる。ボンネットを開けることにした。ひょっとして、彼女が外に出てきて「どうしたの?」と声をかけてくれるかも? と、馬鹿な思いが頭を掠めた。
 冷却水もオイルも、やはり異常はない。エアークリーナーを見るが、異常なし。二・三度スローバルブを引き上げて空吹かしをしてみる。少し、スローが高いような気がする。しかし、下げるわけにはいかない。下げれば、ガソリンの消費も少しは減り、エンジン音も幾分かは静かになるだろう。しかし、下げるわけにはいかない。おとなしいエンジンになってしまう。それだけは、許せない。俺のポリシーに反する。

 じっと、腕を組んで考える。そして思い出した。ガソリンスタンドで、「タペットが悪いかも?」と言われたことを。
「そうかなあ。」
 と答えはしたものの、そのタペットの位置を知らない。いや、タペットそのものを知らないのだ。同年代の男に聞くのは嫌だ、我慢ができなかった。
 結局のところ、彼女は出てこなかった。彼にからかわれたのかもしれない。それとも仕事中のことだ、外を見ていないのかもしれない。どちらにしろ、裏切られたような思いを胸に車を走らせた。

 店に戻って、主任に車の異常が気になると報告してみた。
「あの、主任。車の調子がおかしいんで、見てもらっていいですか? エンジン音がうるさいんです」
「あぁ、音だ? お前さんの運転ではうるさいわな。静かに走ればいいんだよ」
「それにですね、ブレーキの効きも悪いんですよ。サイドブレーキも弱いですし。」
「いいから。そんなことは車だけに頼らずに、自分の自慢の腕でどうにかしろ。急ブレーキをかけなきゃいいことだし、サイドにしたってギアをローに入れておけば問題ない。」
 予想通り相手にしてもらえなかった。

”ケッ、何とまあ調子のいいことを。自分の腕でカバーしろだって。いつも『人間の勘とか腕だとか、そんなものに頼ってはいかん。おかしいと思ったらすぐに報告するように』なんて、いつも言ってるじゃないか“と腹の中で愚痴りながら、思いっきり舌を出してやった。
「また、叱られたわネ」
「フン、叱られたっていいさ。俺は悪くない。今日は土曜日だよね?」
「そうよ。明日は、日曜日」
「そうか、よし。明日は車を借りて、ドライブにでも行くか」

 どうにも女性との会話が苦手な俺だ。なのに、三歳年上のこの女性事務員とは苦にならない。
「ねえ、私も連れてってよ。そんな怪訝そうにしなくていいの。私だけじゃないの、もう一人いるの。今度入った娘よ、真理子ちゃんよ。一人では恥ずかしいから、三人でのデートをしたいんですって。この、色男が!」
 突然のことに、何と返事をしていいのかわからず、唯ドギマギして口ごもってしまった。それにしても、今日はどういう日だ。二度も三度もドギマギさせられるとは。
「じゃあ、明日十時に会社の駐車場ね。そうそう、車の事は私から頼んでおくから。じゃ、そういうことで、キマリ!」

 一方的に取り仕切られて終わった。自分の行動を他人に仕切られるのは嫌なのだが、今回は妙に嬉しい。自分で決断できなくても、腹が立たない。すでに頭の中では明日の走るコースを色々と思いめぐらせていた。正直の所、デートなるものを一度もしたことがない。硬派を自負している俺ではあるが、まるで興味がないわけではない。否、むしろ悶々とすることが多いかもしれない。新入りの娘は、一週間ほど前に入った夜学生だ。結構かわいい少女で、少々…いや大いに、気にはなっていた。しかし例の如く話しかける勇気もなく、遠くからただ見ているだけだ。確か、十六歳のはずだ。