午前八時二十分、始業時間十分前だ。ラジカセから流れてくるラジオ体操の声に合わせて、皆が体を動かし始める。ご苦労なこった、と思いつつ俺もだ。まったくかったるい。
「おい、そこ。キビキビとやりなさい!」
 ジョーダンじゃねぇぞ。くそ、もう辞めてやる! 俺は今、仕事に嫌気がさし始めているんだ。何でかって、それは…。

 一番の理由は、仕事で使う車が軽自動車だということだ。出足・加速・クッション、全て最悪だ。全く腹が立つ。何だそんなことかなんて言われたくない。ほぼ一日を車で過ごしてる身にもなってほしいぜ。その上に、車の乗り方で会社の上役に小言を言われてもいるし。
「もう少しおとなしい運転をするように! 
お前だけガソリン代が多いじゃないか!」

 交差点で隣の車が俺を煽るから、ついつい『ゼロヨンスタート』の真似事をしてしまうせいなのだ。もっとも他の者は、出足とか加速とかに興味がないらしい。走れば良いという輩ばかりだ。だからガソリンも喰わないし故障も少ない。そのうちの一人が、嫌みたらしくこう言う。
「君がいくら頑張って走っても、信号というものがあるのだから大した差は出ないだろうに。そんな無駄なことに神経をすり減らすより、もっと気楽に行こうよ。それに、そんな無謀運転をするからポリスさんに切符を切られるんだよ。反則金がもったいないし、免停にでもなったら大損じゃないか」

 そこで、俺はいつもこう言ってやる。
「俺はネ、他の車より先に目的地に着こうなんて思っていない。グンとアクセルを踏み込むだろ。スピードメーターがグーンと伸びる。すかさずギアをセカンドにチェンジ。すると、横から普通車がグーンと出てくる。相手はまだローだ。そこで俺は又踏み込む。エンジンが悲鳴を上げる。30キロだ。針がそこを指すと、すぐさまサードにチェンジ。針が伸びて40~50キロになる。そこでトップにギアを入れ、アクセルをゆるめる。分かる? ここのところの気持ち。スカッとする瞬間だぜ」

 得意満面で答える俺に、突然の冷や水だ。
「で、どうなの。その普通車に勝つのかい?」
「分かってないな、勝てる筈がない。いつも抜かれてるよ。相手は普通車だよ。加速力が全く違うんだぜ。同じ軽ならと言いたいけれど、全戦全敗です。M社の水冷エンジンはきつい、重いもの。他のメーカーは空冷だしね。だけど、フロアシフトのギアは良い。シフトの動きが良い。GT感覚だよ、実に小気味いい。その点、コラムシフトだと、こうは行かない。ガツンがガフンだもの。力が入らないネ、まったく」

「君の心理は分かんない。反則金に免停だよ、そんな大きな代償を払うようなものかね」
「フン、あんたのような安全運転の模範生じゃダメだ。この気持ちが分かる筈がない。第一、後ろの車の迷惑だ。ノロノロすぎる。追い越しなんかで、意地悪されないかい?」
「そんなことはないさ。ちゃんと、交通法規通りに走っているんだ、大丈夫だよ」
「あぁもう、ホントに分かってない。法規なんて、破る為にあるんだぜ。誰も破らないんだったら、作る必要がないじゃないか。それにポリスという職業がある以上、誰かが違反しなきゃ。そうでなかったら、ポリスさん達おまんまの食い上げだ」

「そんなこと、君が心配することはないサ」
「我々青年はだ、…、やめた。あんたにこんなこと言っても始まらない」
 俺は諦めた、この無気力な男には何を言っても無駄だと。人生観が違いすぎる、と。
「オーイ! そこの二人配達だ、早くしろ。」
 気まずい空気が流れかけた時、はかったように声がかかった。
「君、Aルートの益田商店に行ってよ。あそこの娘さん、君の方が良いらしい。この間届けたら、淋しそうだったよ。」

 とんでもないことを言い出した。
「えっ? この俺に。冗談も休み休みに言えよ。俺は知らんぞ、そんなこと」
 口をとがらせつつも、内心では嬉しかった。主任から伝票の束を受け取り、車に向かった。念のために、ラジエター水の確認。ガソリンもOK。キーを回しエンジンの機嫌を伺う。よし良い音! 上々だ。さあ、出発だ。ギアをローに入れ、勢い良くスタートした。苦笑いの彼をバックミラーに見ながら、いつも通りセカンドからサードまでグイグイ引っ張った。

 角を曲がりきると、20キロに落ちている。このままトップに行くと、加速が弱いこの車ではヨレヨレになってしまう。ぐっとアクセルを踏み込む。物凄い唸り音を立ててスピードがグングン伸びる。30そして40キロ、ストップだ。アクセルから0,5秒の素早さでブレーキに足をかけた。平均では0,7秒らしいが、いつも急ブレーキの練習をしている俺は、やはり早い(筈だ!)。

 3ナンバーの大きな車のテールランプが点いている。やむなくストップした。しかし、何で止まっている? イライラが頂点に達した時(3秒かな? 待てるのは)、クラクションでせっつこうとしてやめた。信号が赤だ、全くしまらない。
 3ナンバーが、静かにタイアを軋ませることもなく出て行く。俺は急いで、グンとアクセルを踏み込んだ。そしていつものように忙しなくギアチェンジを繰り返しながら、車の尻を叩いた。が、ギアがトップに入った時には、彼の車は次の信号を渡り終えている。なんと情けない。声が出なかった。

 しかし考えてみるに、3,000ccの大型車と同じ加速を360ccの軽自動車に望むのは所詮無理である。生まれたての赤ん坊に、高校生との100m競争で勝て! と要求するが如きものだ。富士山をつるはしで崩せ! ということである。俺はそう考えることで、ようやく自分の気持ちを落ち着けた。