それから三年程経ちました、娘が二十歳の秋の終わりでございました。高校卒業後、大学には行かずに勤めに出ておりました。そのことでも、妻と一悶着ありました。わたしは娘の好きなようにするがいいと申し、妻は是が非でも進学をと言い張りました。
 妻の気持ちも分かりますが、いや本当のところはわたしとしましても大学生活を味わってもらいたいと思ってはいました。しかし娘に反対する勇気が無かったのでございます。惚れた弱み、あっいえ、お忘れください。
 幸い、わたしどもの取引先の穀物問屋にお世話になることができました。その穀物問屋は先代からの取引先で、妻も良く知っている所でございます。故にまあ、妻も渋々承知しました次第で。

 突如、何の前ぶれもなくー陽射しの強い日曜日の夕方に、恋人だと青年を連れてきました。肝をつぶす、というのはこういうことを指すのでございましょう。
 妻はもう、小躍りせんばかりに喜ぶ仕末でございます。わ、わたしは……そ、それは、嬉しくもあり哀しくもあり、世のお父さま方と同じでございますよ。えぇ、本当にそうでございますとも。
 青年は二時間程雑談を交わした後、帰って行きました。穀物を扱う商事会社に勤めるお方で、年は二十六歳の一人暮らしとのことでございました。ご両親は九州にご健在で、弟一人・妹二人の六人家族ということでございました。
 妻は「いい人じゃないの」と言いますです。わたしはお茶をすすりながら、ポツリと言いました。
「いい青年だね。だけどお前、やっていけるのかい? ゆくゆくは、ご両親との同居もあるよ」
 娘は、目を輝かせて「もちろんよ、お父さん!」と答えるのでございました。その夜は、まんじりとも致しませんでした。

「もちろんよ!」
 と、言い切った時の娘の目の輝きが、目を閉じるとまぶたの裏にはっきりと映るのでございます。それからのわたしは、まさしくかつての妻でございました。顔にこそ出しませんが、心の内では半狂乱でございました。 
 以前にお話ししたとおり、血のつながりのない娘でございます。もちろん、自分自身に言い聞かせてはおりました。血はつながらなくとも、娘だ!と。
 毎夜心内で叫んでおりました。しかし、崩れてしまいました。脆いものでございます、親娘の絆は。もっとも親娘は親娘でも……。

 そしてそれからの、わたしときたら……。
 娘の入っていることを承知で、風呂場を覗いてみたり電気を消してみたり、とまるで子供でございました。娘の嬌声に、無上の歓びを感じているのでございます。
 初めの内は間違いと思っていた妻も、度重なるに連れ疑問を抱き始めたようでございます。わたしの行動に目を光らせるようになりました。
 そんな時でございました、あの、忌まわしいそして恐ろしい夢を見ましたのは。娘を手放す男親の寂しさもさることながら、実は、正直に申しますと、娘に対して女を意識していたのでございます。

 ある夜のことでございます。
 わたしと妻は、一つの布団におりました。が、急に妻が起きあがるのでございます。申し訳ありません、夢でございます。ご承知おきください。まだ、別の部屋での就寝でございます。
 わたしの腕の中からすり抜け、他の男の元に走っていくのでございます。一糸まとわぬ姿でその男にすがりつきます。わたしは妻を追いかけると共に、その男を見ました。とっ! 何ということでしょう、あの青年だったのでございます。娘の婚約者でございます。わたし自身が、そうなることを望んでいたが為のことかもしれません。

 その時、わたしがどんな思いで妻を連れ戻したことでしょう。とても、これだけはお話し致すわけにはまいりません。唯その後、年甲斐もなく激しく燃え嬌声を発しながら、力のあらん限りをつくし荒々しく抱きしめておりました。
 ふと気が付きますと妻の身体に、鳥肌が立っております。心なしかけいれんを起こしているようにも見えます。わたくしは、思わず手の力をゆるめ顔を上げました。と、何ということでしょう、これは。
 あぁ、お願いでございます。わたしを、このカミソリで殺してください。もうこれ以上の苦痛には耐えられません。
 そう、そうなのでございます。妻だった筈が、娘だったのでございます。わたしは、犬畜生にも劣る人間、いや、鬼畜でございます。

 ………、ふふん。
 しかし、あなた方とてそのような気持ちを抱かれたことはある筈ですぞ。よもやないとは言われますまい。まして、血のつながりのない娘でございます。あなた方だって、きっと、きっと。ぐふふ……
 申し訳ございません、取り乱してしまいました。お話を続けましょう。
 その翌日、勿論娘をまともに見られるわけがありません。その翌日も、そして又その次の日も、わたしは娘を避けました。しかしそんなわたしの気持ちも知らず、娘は何かと世話をやいてくれます。

 そしてそうこうしている内に、結納も済み式の日取りも一ヶ月後と近づきました。
 娘としては、嫁ぐ前の最後の親孝行のつもりの世話やきなのでございましょう。わたしの布団の上げ下げ、下着の洗濯、そして又、服の見立て迄もしてくれました。
 妻は、そういった娘を微笑ましく見ていたようでございます。何も知らぬ妻も、確かに哀れではあります。
 しかしわたしにとっては、感謝の心どころか苦痛なのでございます。耐えられない事でございました。一時は、本気になって自殺も考えました。が、娘の「お父さん、長生きしてね!」の言葉に、決心が鈍ってしまうのでございます。

 本当でございますよ、本当でございますとも。娘にお聞きください、妻にお聞きください。実際に包丁を手首に当てたのでございますから。
 台所でございます。流しに手を入れて、必死の思いで包丁を当てたのでございます。
 何故と言われますか? 噴き出す血を流すのに、一番の場所ではありませんか。お風呂場? なるほど、お風呂場でございますか。それは思い付きませんでした。そうですな、お風呂場が良かったかもしれません。さすれば二人に気付かれずに、成就したかもしれませんな。
 実はお恥ずかしいことに、使い慣れない包丁でございます。背の方を手首に宛がっておりました。ですので、切れないのでございます。まったくお恥ずかしいことです。そうこうしている内に、わたくしめの唸り声を耳にした二人が……。

 とうとう、結婚式の前夜がやって参りました。
 式の日が近づくにつれ平静さを取り戻しつつあったわたしは、暖かく送り出してやろうという気持ちになっていました。が、いざ前夜になりますと、どうしてもフッ切れないのでございます。
 いっそのこと、あの合宿時の忌まわしい事件を相手に告げて、破談に持ち込もうかとも考え始めました。いえ、考えるだけでなく、受話器を手に持ちもしました。ハハハ、勇気がございません。娘の悲しむ顔が浮かんで、どうにもなりません。そのまま、受話器を下ろしてしまいました。
 妻は、一人で張り切っております。一人っ子の娘でございます。最初で最後のことでございます。一世一代の晴れ舞台にと、忙しく動き回っております。

 わたしはといえば、何をするでもなく、唯々家の中をグルグルと歩き回ります。幾度となく、妻にたしなめられました。仕方なく、寝室に一人閉じこもっておりました。
 と、どうしたことでしょう、涙が、涙が止まらないのです。娘を嫁がせる寂しさ? そう思いました。それが当たり前のことでございましょう。ですから、そのように思おうとしました。
 ところが、ところが、頭に浮かぶのは……。
 今さらこんなことを申し上げても、恐らくは信じてはいただけないでしょう。わたし自身が、信じられないのでございますから。
 アハ、アハ、アハハハ……
 どうして妻の為に、涙を流さねばならぬのでございましょうか。
 どうして妻の顔が、あれ程にわたしをおとしめた、妻の顔が……浮かぶのでしょうか…

 ドアを叩く音がしました。
「誰だネ?」
 聞く間もなく、娘が入って参りました。ピンクのカーディガンを羽織っております。二十歳の誕生祝いにと、わたしが選んでやったものでございます。
「お父さん!」
 声にならない涙声で小さく呟きました。
 わたしは、溢れ出る涙を隠そうと、そろそろ雪解けの始まった街路を見るべく窓際に立ちました。夕陽も落ちて、薄暗くなり始めていました。
「まだまだ、寒いなあ」
 そう呟くと、カーテンを引いて外界との交わりを断ちました。涙を見られたくなかったのでございます。

「お父さん……」
 わたしの傍らに来て、娘が又呟きます。
「うん、うん…」
 娘の肩に手をおいて頷きました。
 娘は、何とか笑顔を見せようとするのですが、涙を止めることができずにいました。わたしはそのいぢらしさに、心底愛おしく思えました。
「お父さん!」
 その言葉と同時に、娘がわたくしの胸に飛び込んでまいりました。

「抱いて、抱いて。彼を忘れさせる位、強く抱いて」
 そんな娘の言葉に戸惑いを感じつつも、しっかりと抱きしめてやりました。
 二人とも、涙、涙、でございました。
 静かでした。遠くの方でパタパタというスリッパの音が響きます。そしてそれと共に、娘の鼓動が耳に響きます。と、驚いたことに、娘だとばかりに思っていたその女が、妻に変わっておりました。いやそうではなく、妻に見えたのでございます。
 あの、わたしの元に嫁いでくれた頃の小夜子でございました。わたしが惚れに惚れ抜いた女に、見えたのでございます。
 わたしは叫びます、心の中で絶叫します。
「この女は、この女は、小夜子は、私のものだ。誰にも、渡さーん!”」

 ここで、ご老人の言葉は終わりました。息も絶え絶えで、はあはあと、荒い息遣いでした。出席者の誰も、ひと言も声を発しません。静寂がこの場を取り仕切っております。
 と、一人の女性が息せき切って入ってらっしゃいました。
「お父さん、又他所さまのお宅に上がり込んでしまって。だめですよ、ほんとに。どうも皆さま、お通夜の席をお騒がせ致しまして、申し訳ございませんでした」

 畳に頭をこすり付けられて謝られる女性に、喪主の松夫さんが声をかけました。
「このお方の、ご家族の方ですか?」
「はい。娘の、妙子でございます」
 このご返事に、皆一斉にどよめきました。ご老人は、確かに「娘の命日、妙子の命日」と仰ったのです。
「娘さんのご命日とお聞きしたのですが?」
 松夫さんが、再度尋ねます。

「まあ、またそのようなことを。先年、母を亡くしまして。以来、塞ぎこむようになりまして。最近になりまして少し元気を取り戻したのですが、方々のご法事の場に赴いては、ご迷惑をおかけしています。ほんとに申し訳ございません。それでは失礼致します。さ、お父さん、帰りますよ」
 驚いたことに、背筋をピンと伸ばして話しておられたご老人だった筈ですのに、よろよろと立ち上がられて、そのご婦人にしがみつかれます。
「おぉ、小夜子。どこに居た、どこに居た? わしを、わしを一人にしないでおくれな」
 弱々しい老人の声が、耳に残ります。法悦なご表情のご老人になられていました。
「はい、はい。お家に帰りましょうね」
 そしてその言葉と共に、深々と頭を下げながら去って行かれました。