「初音」
「畏まりました。本日は沢木君が運転します」
「なら初音は隣に来い」
「いえ…助手席に参ります」
「隣に来い」
「ですから…」
「初音」

両腕を組み、有無を言わさぬ威圧感で私を見据える。

「畏まりました」

仕方なく隣に乗り込んでドアを閉める。乗った途端に隣から伸びてきた。

「なぁ、初音」
「東雲です、副社長」
「今夜は晩飯作りに来てくれよ」
「沢木君の教育がありますので出来かねます」
「またうちでやりゃいいだろ?経費節減てな」

経費節減…久しく副社長の口から聞く事がなかった言葉。白々しい…と思いながらもやっぱり無駄には出来ない…。
そんなの…ただの言い訳かも知れない…私自身が傍にいたいと願ってしまう。熱を知ってしまったから…尚離れられなくなった。私を呼ぶ声が…私を求めてくれてるのがわかるから…。私もそれを望んでるから…。躯が、心が……輝一を欲しいって訴える。







経費節減てすげぇな!初音が面白いくれぇに逆らわない。滅多に言わないこの言葉に、今日初めて感謝した。
途中、初音と二人で食材を買いにスーパーに寄った。和食のリクエストに応えてくれるらしい。

俺が軽く沢木をイビってる間に初音は飯の支度。結婚したらこんなかと妄想しながら、沢木をイビり続ける。
俺に第二秘書なんていらねぇ。初音だけがいりゃいいんだ。俺の好みも癖も、初音だけが知ってりゃいい。誰も覚えられなきゃいい。そうすりゃ四六時中、初音は俺に付いて回らねぇとなんなくなる。そうなりゃ…いい。

「副社長?」
「…何だ、沢木」
「東雲さんと…お付き合いしてらっしゃるんですか?」
「だったら何だ」
「あの日…一昨日から…ですか?」
「そんなもんだ」
「酔わせて…ですか…」

コイツは後輩だったな…。

「沢木…昔、酔わせて手ぇ出したんじゃねぇだろうな?」
「…俺だけじゃなくて、狙ってる奴ならしようとした事くらいあります…」

初音がモテてた話は兄貴から散々聞かされてたし、ワインに弱いのもあの日聞いた。
しかも沢木や他の野郎が、俺がしたように酔わせて落とそうとしたって話は俺を焦らせた。

「でも…東雲さんはいつも完全に酔わなかったから……」
「…完全に…酔わない…だと?」
「半覚醒みたいな感じで…意志はあるから、結局誰も東雲さんには手出し出来なかったんです。及川先ぱ…社長もご存知だと思います」

半覚醒?意志はある?…つまり…俺ん時もそうだったって事か?なのに記憶がねぇ振りした…?
今だけ流されろっつったのも、俺にしとけっつったのも…意識飛ぶまでは覚えてるって事か…。好きな奴に届かないから…手近に俺に流されたってのかよ!

沢木を帰そうと部屋を出ると晩飯は出来ていた。一緒に帰ると言った初音を引き留める気にもならず、俺はただ苛立ちと怒りのやり場を失った。
翌日から初音をまた【東雲】と呼び、沢木を連れて歩く事を増やした。







【沢木を第一に上げる。引継を完璧にしろ】

副社長からそう言われたのは、最後に自宅に行って一週間した頃。めきめきと頭角を表す沢木君を疎ましくも誇らしくも思った。


「本当にそれでいいの、初音?」
「うん。約束だったでしょ?」
「先方さんは仕事を辞めて欲しいと言っとるぞ」
「引継も済んでる」
「そう…」
「家も明後日には引き払うから、そっちもお願いね、お母さん」
「一応用意は出来とるから、明日にでも帰ってこれるよ」
「荷物は明日、そっちに送るから」

昼休みに私に会いに来た両親と食事がてらファミレスに入って話をした。約束の期限前に私の意思確認をしに来たみたいで。お見合いの話も進むし、仕事を辞めて実家のある名古屋に帰る――。

秘書室に戻ると引継資料を作る。みんなは私が辞めるとは思っていないのか気にもしないでくれる。終業前には全て出来上がった。あとは沢木君に手渡して、辞表を社長に出したら…オシマイ――。








翌日出社すると秘書室は騒然としていた。俺を見かけた沢木が慌てて駆けつける。

「副社長!東雲さんが…辞表をっ」


「兄貴っ!」
「…僕も、驚いたよ…輝一は初音とうまくやってるんだと思ってたから」
「っ…し…初音は!?」
「随分前から準備はしていたみたいでね…自宅は引き払われてた。秘書室のデスクも綺麗に片付いて」

見合い…あの日、見合いするって……。
初音の辞表を手に社長室を出ると、沢木は手に見慣れた皮の手帳を持っていた。

「…副社長は…東雲さんとお付き合いしてたんですよね?」
「…してねぇよ」
「これ…廃棄するつもりみたいです…東雲さんの」

押しつけられた赤い皮の手帳は初音が肌身離さず持っていたものだ。四年以上…変えずに持ち続けた…。

「見たら…わかります」

沢木はそれだけ告げた。副社長室に戻って、初めて手帳を広げる。びっしりと俺の予定や相手先の事、その日あった事、女に会う予定や予約先の事まで書かれている。
月間カレンダー部は一週間前以降からはほとんど空白だ。週間の方には月間よりも事細かに内容が記されている。

【引っ越し準備、辞表】

一番最近は四日前。更に遡ってみる。

【流されるんじゃなかった。もう届かない】

もっと遡る。

【仕事だけでも一番傍にいられるなら】
【プライベートな時間を独占出来る人が羨ましい】
【傍にいられなくなるくらいなら…ただの秘書でいい】
【私の代わりなんて育たなければいいのに】

俺は何を間違えた?初音の何も…俺には届いていなかったのに……。
二年――初音が想ってたのは……っ。


「東雲さんの実家までの地図です」
「…沢木……」
「ジャガーにはガソリンも満タンにしてあります。高速飛ばせば五時間もあれば着けます。お見合いは明日の午前から昼食を兼ねてされるそうです」
「…よく出来た秘書だな……やっぱり二番目だけどな」
「四年のベテラン第一秘書にはかないませんけど」