『行かなくっちゃ』
とーーその子は。
『行かなくちゃいけないの、だって、見ちゃったんだもの、せんすいかんを』
とーーたしかに。

何年前のこと?
私、パパと、ママと、隣の街の、古いマンションに暮らしていた頃?
それならば、きっと、私はまだ、小学校へと入学したばかりで。
近所の小さな公園と、お菓子と、それと、お友達のことが大好きだった、あの頃のこと。

「考えてるの? 今度は、何を? 」
と、そのとき、耳許に。
なんとなく、ふわふわしたような、優しい声。
みつはちゃんの瞳、私をーーもしかして、ずっと?
「そういう訳じゃ、ないんだけど」
とーー私、とっさに。
「判るよ、だって、何も見ていないもの、あなたの目」
と、ほほえみながら、みつはちゃんは。
何故だろう?
彼女には、私の考えが、読まれてしまうことがあるような。
友達になり、未だ、そう、日は浅いのだけれど。
四角い窓の外、いつもの景色、いつもの夕暮。
いつのまにか、彼女と、私と、ふたりきり。
ずっと、ずっと、騒がしかったはずの教室、その隅の席。
「寒いね、なんだか、ちょっとだけ」
と、みつはちゃん、きれいにほほえんで。
そのーーときのこと。
私、どうしてか、このひとにならーーと。
そう、みつはちゃんになら、きっと、だいじょうぶーーと。
いつのまにか、私、深く、深く、息を吐くように。
そのーー新しい、友達へと。
たどたどしくーー言葉を。

『行かなくっちゃ』
と、その子は。
『行かなくちゃいけないの、だって、見ちゃったんだもの、せんすいかんを』
とーーその子は、ふしぎな言葉を、遺したきりで。
私、全てを、みつはちゃんへと。
仲良しのその子を連れ去った、地上を行く? 潜水艦のことを。
小さな私、それを見つけるため、街中を探し回ったことまだをも。

「居なくなったの? 」
と、みつはちゃん、ちょっぴり、おどろいたように。
私、こくりと、うなずいて。
「どこへ? 」
とーーみつはちゃん。
けれど、私にだって、ずっと、ずっと、そのこと、判らないままで。
「それきり? 」
とーーまた、みつはちゃん。
それにも、私、ただただ、うなずくばっかりで。
「どういうこと、かな? 」
とーーみつはちゃん、首を傾げながら。
そのまま、ふたり、すべての言葉、忘れてしまったみたいに。

そして~ー空っぽの時間だけが。
みつはちゃん、なんだか困ったような表情のまま。
その顔の半分、いつのまにか、暗がりに染められて。
そしてーーようやくのこと。
ゆっくり、ゆっくり、みつはちゃんーーその唇を。

「あなたは、まだ、見たことは? 」

とはーー何を?

「すいせんかん」

ーーと?

え?

『すいせんかん』?

『せんすいかん』?


みつはちゃん、言い間違いをーー?
でもーーどこかで?
どこかでーー聞いた憶え、あるような?

「その子の、名前を? 」

とーーみつはちゃんは。
でもーー憶えていない。
どうして?
とっても、仲良しだったのに。
そのはずなのに。

「その子の名前は」

とーーまた、みつはちゃん。

「その子の名前は、はつみちゃん」

ーーえ?

「そして、その子はね、きっと、せんすいかん、と言えなくて、すいせんかん、と」

ーーとは?

「はつみちゃんはね、連れて行かれたのでは無いの」

「あなたが、あなたたちが、ずっと、ずっと、連れて行かれたまま、だったの」

ーーと。

何を?

みつはちゃんは。
私のきれいな友達はーー何を?

「そう、この世界は、内側なの、すいせんかん、いえ、せんすいかんの」

「私は、逃れていたの、その船の、外側に」

「そう、この世界を載せた潜水艦が、このように、復旧するまで」

「あなたが、街中を探し回った、潜水艦、その中に、あなたと、私は、そう、いま、つまり」

とーーみつはちゃん、指の先、唇に当てたまま。
それはーーそう、私の、あの小さな友達の、困ったときの、癖だったような?

ーーけれど。
けれど、そう、海がある、空がある。
海には、潮の満ち引きがあり、空には、飛行機が飛び交っている。
太陽があり、雲があり、雨が降り、雪が降る。
また、一日があり、昼があり、夜がある。
そうーーちょうど、このような、曖昧な黄昏の色も。

「そうね、だけど」

と、私の目の前の、きれいな影は。

「あなたは、海の水に、触れたことが? 飛行機のシートから、雲を見下ろしたことが? 」

そのままにーー影は、私に。

「そう」

「内側から、外側は、見えないし、外側からは、内側は、判らないのだもの」

ーーと。

遠く? 近く?
上空から? 足下から?
これとはーー耳鳴り?
いえーーノイズ?
何の?
シャフトの回転するような?
シリンダの振動するような?
このーー音とは?

私ーーただ、途惑ったまま。
彼女の名を、呼ぶことも、かなわないままに。