唐突だが、堀川七条に西本願寺という名刹がある。

以前まだ翔一郎が仕事の少なかった頃、旧友で紀州の寺の息子であった乾賢海という僧が西本願寺にあって、前から共通の友人もある陣内一誠ともども仕事を回してくれた…というのが縁で、外国人向けのポストカード用の写真を撮ることを条件に、御影堂へ出入りすることで翔一郎は許されている。

翔一郎も、虎之間と呼ばれていた御影堂の広間でただ座って過ごすのが何よりも心を解き放てるひとときであったらしく、

──贅沢なリラクゼーションやな。

といい、フィルムを半分ばかりほどの撮影を終えたあたりで虎之間で休憩するのが、ちょっとした息抜きになっていた。



その日は。

愛から預かっていたカメラの修理が済んだ、というので懇意の職人がいる吉祥院の工房まで出向いて、引き取った帰りに試し撮りかたがた、西本願寺の御影堂まで寄り道をしてみたのである。

作動のチェックは問題なく、そのままもらった紙袋に納めようとしたが、何かが引っ掛かった。

どうやら紙袋の奥に冊子がある。

開くと、中のフィルムを現像したらしき写真とネガが入っていた。

(これが引っ掛かっとったんか)

整理しようと取り出した。

すると。

ネガのうちの一枚が目についた。

中には壊れた家屋や、瓦礫に突き刺さった自動車が写されてある。

(…これは)

もしかしたら、と翔一郎は見てはいけないものを見たような感情になったのか、目をそらすように紙袋にしまい直してカメラを納め、

(これは、誰にも言うたらあかん話や)

途端にばつが悪くなったのか、御影堂の虎之間を足早に退出したのであった。



西陣に帰ると、エマが相変わらずキッチンにいる。

「戻ったで」

「あ、お帰りー」

「カメラ直ったから、愛ちゃんに渡しといてくれへんやろか」

「うん、分かったよー」

エマは目が離せないらしく背を向けたまま返事をした。

翔一郎は少しぼんやりしていたが、

「ちょっとカメラの手入れしとるから」

というと、キッチンを離れたのであった。



時が、過ぎた。

時代祭が近づいてきた頃、西陣の翔一郎たちの住む京町家が大家の代替わりでマンションに建て替わることとなり、別に新たな物件を探すことになった。

そこで。

一誠の紹介で引き合わせてもらった家主の厚意で、候補となっている借家の下見にエマと出掛けた。

同じ西陣のエリア内ながら、通り名で言うところの智恵光院笹屋町に借家はあって、前は唐紙屋であったとの由である。

「もとが唐紙屋やから、採光には気を遣ってありまして」

家賃も京町家にしては廉価である。

条件は長く住んでもらうことで、翔一郎はもとより長く住める物件を探していたから、問題はない。

年度の下半期を機に、翔一郎とエマは智恵光院笹屋町の新居へ──といっても古い京町家だが──引っ越し、そこを新たな拠点とすることとなったのであった。



智恵光院笹屋町に引っ越したあと、翔一郎はぼんやりする日が増えたのを、エマは気にしていた。

「何を撮りたいのか、分からへんくなることがあんのや」

というのである。

いわゆるスランプなのか、というと、

──そうではない。

という。

「スランプは達人や名人がなるもので、おれは少なくとも達人や名人やあれへんからスランプではない」

というのが、不安になるとちょっと理窟っぽくなる翔一郎の言い分である。

飲み会の席で、こんな話があった。

話を繋ぐと、芸術大学に通っていた頃の翔一郎はやや傲慢なところがあったようで、

「才能なんぞ温泉みたいに、掘ったら勝手に湧いて出るがな」

とまでしたたかに放言し、言動が生意気だというので先輩たちに取り囲まれたこともあった…という。

「けどホンマの話やし、しゃーないやろ」

変に根拠のない過信があったらしい。

が。

油絵を専攻していた当時の恋人がプロとしてデビューし、写真科で一番の親友が写真とは無縁な企業へ就職が内定した頃から、翔一郎は自らの才能に涸渇感を覚えたらしい。

「きっと絞り出さな、自分でも撮れへんくなってきたんやろね」

ひとまず芸術大学の頃アルバイト先で知り合った先輩の陣内一誠が事務所を開くと、そこへ助手として拾ってもらったのだが、

「おれには才能があるんかどうか分からへん」

少なくとも天才ではないから撮って撮って撮りまくって、必死に精進するより他なかった…といった旨の話を翔一郎は語った。

しかし。

次第に花や風景を絵画的に撮る独自のスタイルが確立し、

「そうやって西陣に事務所開きをした直後に、鴨川でエマに出逢ったんや」

翔一郎がかつて「ここにおっとけ」と抱き締めた理由が、このときエマは少しだけ分かったような気がしたようで、

「…翔くんはさ、何でも独りで悩んで、一人で何とかしようとするんだもん」

ちょっと寂しいな──というと、翔一郎を背後から甘えるように抱き締めた。

「もうあたしはいなくならないんだからさ、一人で構えなくても、いいんじゃないかな」

出来るだけ笑顔になるよう振る舞っていたが、エマの声は涙で湿っていた。

「才能って…何やろな」

「さすがにそれは、あたしでも分からないよ」

おれには才能ってハナからないんとちゃうやろか──と翔一郎は呟いた。

「そんなことないって」

だってね──とエマは続ける。

「あたしは翔くんの作品を見て、こんな綺麗な写真を撮れる人が彼氏だったらいいなって思ったから、あのとき寝たんだよ」

「…おぉきに」

首に回してあったエマの手に、翔一郎はそっと触れた。

「翔くんさ、一週間ぐらい休んでみたら?」

「そやな」

翔一郎は素直に子供のような返事をした。



さて。

翔一郎の大学時代の同期に青島薫という仲間がある。

彫刻を専攻しており、遂に卒業まで同じゼミになることはなかったが、同じ予備校の夏合宿で旧知の間柄であったのもあって、よく新京極あたりの居酒屋で安酒を酌み交わしながら、互いに将来や夢なんぞを語り合った仲間でもあった。

薫はギターを手に京都駅の前で歌ったり、いわゆるストリートミュージシャンとして大学の頃から活動をしていたが、

──ちゃんとしたアーティストになるには、東京まで出るしかないのや。

といい、卒業して一年ほど過ぎた頃に東上していったのである。

その後。

連絡らしい連絡も取れないまま、翔一郎は助手を経てカメラマンとして独立している。

その青島薫という名前が、意外なところから出てきた。

発端は香月愛である。

例の修理の済んだライカを、レポートで手が空かないエマではなく、結局は翔一郎が愛のもとへ届けることになったのであるが、

(遠いな案外)

翔一郎が思ったのも無理はない。

通り名でいうと久世橋通新町、つまり十条の勧進橋の近くなのである。

方位的にはほとんど西陣の反対側で、

(こりゃバイクやな)

人間社会とはそうした一見すると不条理な中に妙味があるのかも分からない。



カメラを使わずに休む…というのは、まだ彦根にいた頃以来ではなかろうかと翔一郎が気づいたのは、エマから勧められて一週間の休暇を取って、慌てて飛び起きた直後である。

ともあれ。

愛にメールで連絡をすると、

「出来れば今からの方が、バイトに差し支えがない」

との返信で、支度を済ませると翔一郎はカメラの入った紙袋を積んで、西陣を出た。

もう十月だというのに、台風崩れの雨上がりであったからか蒸し暑い日で、

(長袖は少し暑かったかなぁ)

と、大宮通を下がる信号待ちの時なぞに感じたらしかった。

上鳥羽の辺まで下がると道は空いており、久世橋通へ入ると新町の交差点のバス停の近くで、ワンピース姿の愛が待っていた。

「翔さん、わざわざありがとうございます」

翔一郎は手渡して帰るつもりであったが、

「少しお茶でも」

というので、よく愛がパフェを食べに行く伏見稲荷の門前のカフェまでタンデムでバイクを転がした。



カフェはぬりこべ地蔵から路地を入った住宅街の中にあって、宇治田原の御茶屋が東京のパティシエと組んで開店したという隠家風の店舗である。

初めて来た店で、表参道か原宿にでもありげな小洒落た内装は、あまり京都らしからぬ雰囲気でもある。

「あたしはパフェ」

ウェイトレスがオーダーをメモする。

「自分は冷コーでえぇです」

「関西の人って、ホントに冷コーって言うんだ」

愛は目を丸くした。

「普通なんとちゃうんかいな」

「だってうちの地元じゃ、アイスコーヒーはアイスコーヒーだし…」

さよか、と翔一郎は水を含んだ。

「…気に、ならないんですか?」

「えっ…なにが?」

「よく過去を根掘り葉掘り訊いたりとか」

「そんなん他人の昔話なんぞ聞いて、何の値打ちがあんのや」

先に冷コーが来た。

「まぁ京都に住んどると分かるんやが、あんまり過去とか聞き出さんのが普通らしいのや」

京都という場所は昔から、訳あり者のやって来る率が高い。

「それで訊かんのちゃうかな」

おれもエマも訳ありっちゃ訳ありやし、というとストローに口をつけた。

「それでなのかなぁ」

東京にいたとき付き合ってた彼氏も、あんまり穿鑿しなかったな──と愛は出されたパフェを食べ始めた。

「なるほどねぇ」

「その彼って京都生まれだったんで、だからこっちに移ったとき色々と彼の足跡みたいのを訪ねたことがあって」

「ふーん」

「伏見の実家とか、大枝の芸大とか…」

「…おれも大学は大枝の芸大やで」

「そこでキャンパスに飾られてた桜の写真を見て、翔さんが西陣にいるって分かったんです」

翔一郎は仕返しではないが、カマをかけてみた。

「彼氏って…名前、青島薫って言わんか?」

「えっ?!」

今度は愛が驚いた。

「なんや、青島の元カノやったんかい…」

翔一郎は腹を抱えて笑い出した。

「知り合いですか?」

「知り合いも何も、予備校の頃からの仲間やがな…世の中っちゅうのは広そうで狭いわぁ」

時計を見た。

「あ、バイト」

「そうか…ほな、またな」

急いで愛は店を出た。

後から翔一郎が支払いを済ませると、カフェの前に停めてあるバイクのシートに小さな手紙が挟んである。

開くと、

「ごちそうさまでした」

というメッセージと、パフェ代の千円がある。

「…気にせんでもえぇのに」

翔一郎は手紙と千円札を財布にしまうと、バイクに跨がった。