5.

湖山さんに会わなければ、いつか諦めがつくだろうか。このタイミングで湖山さんのアシスタントの仕事が減ってきた事は、湖山さんを諦めるのにはちょうど良いのかもしれないと思えた。「そろそろ潮時だよ」と運命が言っているのかもしれない、と。

だけど、そう簡単な話でもないような気がする。湖山さんではないカメラマンの助手をしていても、そして、自分自身がカメラマンとしてカメラを構える時ですら「湖山さんなら・・・」と考える。光の加減、レフ版の向き、この被写体を湖山さんならどうやって切り取るだろう?「湖山さんの目から見た」被写体を想像する。それは、殆ど癖のようになっている作業だ。

そして、その目から離脱した自分はいつも、湖山さんの殆ど正面で、なのに絶対に湖山さんの目線に入ることはないところにいて、湖山さんのまっすぐな目を見ている。

湖山さんがそこにいても、いなくても、やっぱり俺は、湖山さんを感じないでいる自分なんか想像することができない。

湖山さんの撮る写真と「よく似ている写真を撮る」と言われる。「湖山の助手ですから」と答える俺はいつも多分すごく得意そうな顔をしているだろう。褒め言葉ではなくても、カメラマンとしてそれが正解でなくても、俺にとっての一番の褒め言葉だ。俺にとってのいい写真、というのは湖山さんが撮る写真だ。湖山さんが「いいね」って言う写真。

だからこの世界に身を置く限り俺は湖山さんのことを想い続けてしまうんだなと思い知る。だからといって、この俺に他に何ができるんだろう・・・。

結婚式場の下見に行った時に見たビラを思い出す。ウェディング写真のカメラマン募集のビラだった。そういうのもいいかな、と思う。俺がここで仕事を続けている理由は湖山さんだけだから、その理由がもうなくなるんなら何をやったって同じだ。

いっそ写真から離れた方がいいのかもしれない、と思ったり、せめて「写真」というつながりだけでも、と思ったり、忙しなく心が揺れる。

メトロノームのように振れ続ける心はまるで永遠であるかのようなのに、それでも、季節が過ぎていくのを感じる。

たとえば、さっきまで明るかった外の景色が急に紫色になっている時、青い空を見上げるとプラタナスが萎れているように見える街道沿い、スタジオを出た瞬間に感じる肌寒さ・・・。毎年繰り返していることなのにそんな些細な事が、急に重大な意味を持っているように感じる。時が過ぎているのだ、というその事実を突きつけられている。「変わらなければいけない。いつまでも、そのままではいられない」ということを。