朝、窓から清々しい空気が流れ込んできているのを感じて、私は瞼を開いた。
 そして、私の顔を覗き込んでいる見慣れた快活そうな少女が目に入る。
 うん。これは夢だ。間違いない。
 そう、ドアと窓はしっかりと鍵を閉めて寝たのだから。
 それを開けて少女が入ってくることなど、ありえないのだから。
 これは夢以外のなにものでもないに違いない。
 そう理解したのなら、やることは決まっている。六時半に目覚まし時計が鳴るまで、夢の中でも寝てやる。これ以上の幸せはきっとありはしないだろう。
 私は肩までかかっている布団に潜り込み、目を閉じる。
「りん~、目覚ましなら鳴らないよぉ?あ。これ早口言葉になるかも!」
 少女の意味不明で明るすぎて疲れてくる言葉。
 あぁ。なぜ夢の中までこの少女に付き纏われなければならないのだろう。そもそも、両親が同級生だったからと言っても、普通はここまで長い付き合いにはならないと思う。
 お母さん曰く「あの子が生まれて三ヶ月くらいから一緒だったわねぇ」らしい。
 家は隣で部屋はベランダ越し。さも当たり前だと言うような顔で私の家を勝手に出入りする幼馴染。“親しき仲にも礼儀あり”という言葉があるというのにこの少女には礼儀のれの字すらも見たことがない。
「りん~。もう7時になっちゃったよぉ?」
 それが耳に入ると同時に「え?」と間抜けな声を上げて『ガバッ』と起き上がる。
 すると目の前に夢の中の少女、いや先程の少女―桜坂 姫ことひーがいる。
「おはよ~!モーニングひーちゃんコールだよぉ!」
 うん。一言だけ言いたい。
 もちろん起こしに来ている時点でコールではないというのも教えてあげたいところだけど、それよりも言いたいことがある。
「泣きたい。」
「え?なんでなんでぇ~?こんな可愛い幼馴染が朝起こしに来てくれてるんだよぉ?世の紳士淑女、美男美女、不男不女に老若男女、誰もが望むこの一瞬!こんなおいしいシュチュエーションがりんは嬉しくないって言うの?」
 私の一言に、絶対の自信と私への疑問とどこで覚えてきたかもわからない一般論?でひーは返してくる。
 確かに、背が166cmもあってスタイルも良い。肌も白くて、髪も長い綺麗な黒だし。おまけに胸だって大きい。少し歩けば、男の人に声をかけられてもおかしくはない。
 だけど。
「女の子が女の子に起こされても、ちぃ~っとも嬉しくないの!」
 そう、私は女の子である。
 男の子であれば、これ以上ないくらい幸せで夢にまで見るシュチュエーションなのでしょうけど、女の子である私にとっては迷惑極まりない行為にほかならない。
 しかしながら目の前にいるひーは、それを一度も理解してくれたことがない。
「えぇ~?わたしだったらぁ、りんが起こしに来てくれたらぁ、とってもとぉ~っても嬉しいよぉ?」
 そう私の言葉を、それはそれは嬉しそうな笑顔で跳ね除けて返してくるくらいに。
 だが、今の私には朝食を食べる時間すらない、とても危うい時間なのだ。もちろんひーにとっても。
「ほら。馬鹿言ってないで、部屋から出て!制服に着替えるんだから!」
 だからそう切り捨てるに限る。
「は~ぃ。女の子同士だから別にもんだいないのにぃ~」
 そうひーは小声でぼやきながら出て行く。
私はそれを見送るとすぐさま鍵を閉め、開いている窓へと歩を進める。
 そして、奇妙に曲げられたアルミ製の本立てを見つけ「あった」とつぶやいてそれを拾い上げる。
 恐らく昨日の夕方のうちに窓の隙間に挿めておいて、外から鍵を開けられるように細工しておいたのだろう。
「はぁ。どうやればこんなろくでもない事ばかり思いつくんだか」
 そう呆れて吐き捨てると、その奇妙に曲がった本立てをゴミ箱へと投げ入れ、さっさと着替えを始める。
『ガチャリ。ガチャリ。』とひっそりドアノブが回る音がしたのは、時間がないため気にしないことにしたのは言うまでもない。

 着替えを終えてドアを開けると、そこに覗こうとしていたひーの姿はなく、私は軽く溜め息を吐いてリビングへと降りていく。
「あら。りんちゃんおはよう」
 リビングに入ると、優しい笑顔でお母さんが声をかけてくる。
「おはよ、お母さん」
 私はそれに笑顔で笑い返すと、テーブルに並んでいる朝食が目に入った。
 食パンとベーコンエッグにサラダと牛乳かぁ。
 私は自分の分の朝食の前に立つと、食パンでベーコンエッグとサラダをサンドして、牛乳を一気に飲み干す。
 そして出来上がったサンドイッチをラップで包んで、お母さんに「ひーの所為で時間ないから、もういくね」と笑い掛けながらサンドイッチをカバンに入れて、リビングを後にする。
 もちろん、お母さんの「気をつけてね。いってらっしゃい。」という優しい言葉に「うん。いってきます!」と元気に答えて。
 玄関で靴を履き終えると、いつものようにドアを開ける。
 目の前が真っ白な光に包まれて、朝の清々しい風が頬を撫でる。そんな中を一歩、また一歩と進んでいく。
 いつもと同じなのに、なぜこんなにも心地が良いのだろう?
 そんなことを考えていると「りん~おんぶ~」という声が聞こえて、肩がずっしりと重くなる。
 当たり前だけど、気分や雰囲気はぶち壊し。
「ひー。あんたの方が重いのに!なんで私がおんぶしなきゃいけないの!?大体ひーの所為で時間ないんだから、さっさと離れなさい!」
 そう一気にまくし立てるが、ひーは日溜まりの中の子猫のような顔をして「なんでって。楽だし~。」と当たり前のように答える。
 はい。よぉく知ってます。
 豚に真珠。馬の耳に念仏。猫に小判。
 そして、ひーにお説教。
 そのどれもが意味しているのは、それがどれだけ無意味で無駄で挙句の果てには無謀なことであるということ。
「うん、とりあえず時間ないから。お願いだから離して」
 そうお願いすると、しぶしぶながらも「仕方ないなぁ」と言って、頬に「ちゅっ」という音だけを残して駅への近道である小道へと、消える。
「な、な、なにすんのよ~!!」と叫ぶが、ひーの笑い声だけが聞こえるだけで、その叫びは本来の効果を失っていた。
 ひーを追いかけて小道に入るが、既にかなり先にいる。
 もちろん逃げている。そして逃げるやつは追いかけるに限るものだ。
 私は「そこで大人しく待ってなさい!」と叫んでひーを追いかける。
 でもひーはというと「えぇ~。とっ捕まえてぶつでしょ~?」と『ケタケタ』と笑いながら逃げていく。
 そしてその様は、余裕の一言でしかなかった。
 私は全力疾走だというのにもかかわらず、ひーは道端の気だるげなネコに「おはよぉネコ君。今日も良い天気だねぇ」と挨拶したり、途中で花を眺めたりと、かなりのろまの亀そのものな筈なのである。
 だがしかし、私とひーの間に出来ている差は、この追いかけっこが始まって以来、ずっと一定を保ち続けているのだ。
 それが何を意味しているのか、それがわからない私ではない。
「ひー!あんた手を抜くくらいなら、大人しく捕まんなさいよ!私が足遅いからって馬鹿にしてぇ!」
 そう、ひーはずっと遊んでいたのだ。
 私の途轍もない怒りが頂点に上りつめるくらいに。
 そして「あ。バレたか。」というこっそりとした声が耳に入り、怒りは頂点をも超えた。
「ひー!捕まえたらおぼえてなさいよぉ!」
 そう口にして、さらに足を速める。
 ひーは「あははっ」と楽しそうに笑いながら、そんな私から逃げるように小道の終わりを抜け、大通りへと出て行く。
 そして私は勝ちを悟った。
 この先にあるのは、朝のラッシュに見舞われた駅前の大通りだ。もちろん信号は2、3分待たされるのは当たり前。
 私は急いで小道の終わりを抜け、大通りへと出る。
 そして案の定、赤信号で身動きが取れなくなってしまったひーに、私はじわりじわりと近づいていく。
 ひーは私の顔と歩行者信号の赤を交互に見比べながら、足踏みをしている。
 結果、私がつくのと青信号に変わるのはほぼ同時であったが、0.1秒程ひーが駆け出すよりも私の手がひーの襟首を掴む方が速かった。
「さて、ひー。グーでぶたれるのとグーでぶたれるの、どっちがいい?」
「あははぁ。りんったら、いつにも増して綺麗なんだから、ぶつなんて言わない方が良いよぉ?それにどっちも同じだし。」
 私の問いに意味不明な答えを返すひーの頭を『コツンッ』と叩き「あ~、もう。馬鹿言ってないで、さっさと学校行くよ?」そうあしらって横断歩道を渡る。
 ひーは私の後ろで『クスリ』と笑うと私の腕に抱きついてきて、もう一度私からコツかれた。