隣の部屋のカップルの声が壁越しに聞こえる。話し声ではない。AVで学んだかのような喘ぎ声と睦言。わたしはヘッドホンが伸びるパソコンの音量を3つ程上げた。パソコンは出窓に向き合うように設置された机の上にあり、その周りはペンや本で散らかっている。部屋は暗い。出窓から差し込む直射日光が眩しく、ベランダに繋がる窓から入る日光でパソコンの画面が見えなくなるから、遮光カーテンは閉めてある。
 画面に広がるのは二次元の男性。二次元の男性が「わたし」に愛を囁いてくる。決まったルート、わたしの考えていることと違う「正解」を選択すれば、彼等は文字通り機械的にわたしに好意を抱く。仕組まれている空しい、冴えた頭が見せる夢。
 ヘッドホンの外から、微かにインターホンの音がする。1度だけかと思ったけれど、1度目の音が鳴り終わったかと思うと続けざまに鳴る。悪戯だろうか。それとも、ただ間違って押してしまっただけだろうか。ヘッドホンを取って、玄関に向かう。ぎしぎしと軋む、隣とわたしの部屋を隔てる壁。

「はい」
 チェーンを掛けたまま、鍵だけ外しドアを開く。視界に映るのは見慣れた玄関前の風景だけ。誰もいない。悪戯か。このまま続いたらどうしよう、誰だろう、そう考えながらドアを閉めようとする。
「待って!待ってよ!」
 ドアが閉まらない。何か挟んだ。そして聞きなれない声。
「誰・・・・?」
 男の声だ。わたしがこの世でもっとも嫌悪している生き物、 人間の男。ぞっとしてわたしはドアを見る。人差し指から小指までが挟まって、隙間が開いている。少し赤みを帯びてきてしまっていたために、ドアをかける力を弱めた。
 しゃがんでいるのか、手が挟まっている部分は随分と下だ。
「鍵落としちゃって・・・・」
 姿は死角に居るため見えない。色素の薄い毛先が見えるだけ。しょんぼりした声だ。
「そうですか、大変ですね」
 無難過ぎてかえって無難ではない言葉を棒読みで返す。
「ふぇええっ・・・・」
 色素の薄い毛先が大きく動いた。背を丸めているのか。声に震えが混じり、嗚咽が聞こえる。
 何こいつ。それが第一印象だった。
「鍵、落としちゃってっ・・・!オレ、探し回ったらドブ落ちちゃって・・・・!犬に追われて・・・・」
 鼻を啜る音がする。目を擦ったのか、腕がちらりとドアの隙間から見えた。
「・・・・・わたしにどうしろって言うんです。それにあなた、どこの誰なんですか?」
「・・・・う・・・・えーっと良平和(らぴす)っていうんですけど・・・・」
 らぴす?わたしは思わす聞き返した。聞き間違いに決まっている。
「やっぱ変な名前ですよね・・・・。良い平和って書いて・・・ほら、平和ってピースって英語で言うじゃないですかぁ・・・・・」
 男声にしては少年のように高い。
「それで、らぴす って読むんです」
 軽く眩暈を起こす。今有名なキラキラネーム。悪く言うとDQNネームという、奇抜な名前のこと。
「ちなみに弟は良い木って書いて、良木(らづり)って言うんですよ。変でしょう」
「どうして良い木で らづり なんです」
 掌に言われた通りに文字を書いてみる。木を「づり」と読んだことは、近頃の大学生と比べるとそこそこの読書をしていると思い込んでいるわたしの中でもない。
「木って英語でツリーでしょう。それで、無理矢理らづりなんです」
「2人合わせてラピスラズリですか。鍵がなくて家に入れないのなら、弟に泊めてもらったらいいじゃないで・・・・」
 言い欠けて思い出す。このアパートはほぼ学生。ここにいるということは1人暮らし。地元に帰るに帰れないだろう。
「なんでこの部屋選んだんですか」
 わざとらしく大きく溜息をつく。
「あ・・・・そうですよね。やっぱり迷惑ですよね、女性のようですし・・・・。じゃあお隣に・・・・」
 お隣、という単語。
「待って」