「遠町 雫」という、彼女に会ったのは、


今日が初めてじゃなかった。



前に一度、廊下の長椅子で見かけたことがあった。


水色のワンピースから、細く伸びた腕に


たくさんの切り傷があったのが印象的だった。


ああ、リストカットってやつだ。


テレビの特集で何度か見たことがあったけど、


実際に見るのは初めてだった。


真っ白い腕に赤茶色い線が何本もある。


手首から、肩まで。


古いのも、まだじゅくじゅくしていそうに新しい傷もあった。



「しずくちゃん。」


看護師にそう呼ばれて、それまで居眠りしていた彼女が目を開け、


診察室の中に入っていく。


その時に見えた、二の腕に刻まれた小さな三日月に釘付けになった。



リストカットをする女の子。


シズク。


その鮮烈なイメージは、僕のブラックボックスにしっかりメモリーされていた。




だから、病院の階段でうずくまっていた彼女を、


迷うことなくここまでおぶって来れたのだ。




 精神科の受付に着くと、あの時の看護師が慌てて出てきた。


「雫ちゃん!どうしたの!」


僕の肩から、看護師が二人掛かりで雫を抱え降ろすと、


一旦長椅子の上に寝かせ、頬を軽く叩いて、彼女の名前を呼ぶ。


「雫ちゃん」


その声で、彼女が目をつぶったまま、口を開いた。


「あのね。怖いの。怖いから切ったの。」


「あたし、もうすぐで十六歳になるでしょう? だから切ったの。」


そう言うと、彼女のつぶったままの目からたくさんの涙が零れ落ちた。


「いやだ~。もぅいやだよぉ~。」



「そう。もう大丈夫だからね。先生に、傷、縫ってもらおうね。」


看護師が手を握ると、安心したのか涙を拭う。


顔に柔らかいゼリーの様になった血液がくっついて、


固まっていく。


やがて、廊下の向こうからストレッチャーが運ばれてきて、


雫を連れていった。


「裕人君、ありがとうね。服、汚れちゃってごめんね。」


僕の首筋で固まった雫の血を、年配の看護師が拭いてくれる。


アルコールが、すっと僕の身体の温度で蒸発していく。