その時だった。
 彼の目配せが合図かのように、目の前が飢えとは違う、揺らぎと歪みを発生させた。有村が奏でる音は冷たい。一音、一音を正確に、しっかりと刻む。どこか違う場所に向け、弾いてる。彼の視線をここではないどこかへと投げかけられているように遠くを見つめていた。私の目の前の歪みから、しとしと、と何かが降り注ぐ。
 雪だ。
 冷たい雪。私は手を広げ、雪の冷たさが皮膚に多数降り注ぎ、形を造り、輝きを放ち、それが人になった。
 女性だ。
 それもよく知っている女性。私が愛した女性。不慮の交通事故に遭い、この世から消えてしまった女性。私の、帰り、がもう少し早ければ、事故は起きなかった。
「ありさ」
 私は凍えるような声で言い、彼女の頬に触れた。人肌特有の温かみを手の平に感じた。
「あなたは悪くない。後悔だけで人生を無にしないで。これからよ。そして、私は、あなたの側にいる」
 彼女は綺麗な歯並びをのぞかせた。その笑顔が私の凝り固まっていた心を溶かし、目の前のありさも徐々に溶けていった。私がありさの頬に触れていた部分は液体になったが、それは温かった。
「溶けたようだな」
 有村のドライな声が終わりを告げ、音も終わりを告げた。
「ありがとう」
 私は感謝の言葉を口にしていた。なにがなんだかわからないまま。彼の奏でるギターに秘密があるのだろうが、確信が持てない。それに雪が室内に降るだろうか。現実的に考えればそれはあり得ない。
「雪が降るな」
 そう有村は言い、窓の方をちらっと外をちらっと確認し、すぐに目線をギターに向けチューニングを合わせた。私の手の平はありさの温もりが残ったまま、その手を自分の頬にあてた。
「君は一体何者なんだ?」
 私の疑問に有村はチューニングを合わせていた手を止めた。
「お前はおかしなことを訊くんだな。高校の同級生じゃないか。まあ、食え」
 有村はお盆を指差した。私もお盆に目を向けた。おにぎりには雪の欠片が付着し、湯飲みからは先ほどまでの湯気は消えていた。私は有村に視線を向けた。
「しかし、今の、今の現象は」 
 私がそこまで言ったとき、有村が右手で制した。
「治癒してるんだ」と彼は今までに無い透き通る声で言った。「音を通して、埋めたり、つないだり、ほぐしたりしている。音にはそういう力がある」
 私は喉が渇いた。有村の言葉を反芻する内に、口内は砂漠化し、頭の中はわけがわからなくなった。思考が混乱しているのかもしれない。お盆の上にある湯飲みに手を伸ばし、一口飲んだ。それは雪のように冷たかった。