来る者を拒むような難解な印象を与えかねない標題の本作品を読みに来られた読者の勇気と気概に、まずは敬意を表したい。
 今、読者の脳裏には様々な疑問が浮かんでいることだろう。例えば、

尾木ママは、真面目な会議とかでもあの口調で話すんだろうか?

とか、

歌の最後の一小節を高らかに歌い上げれば、誰でも布施明になれるのか?

とか、

なぜ、筆者は飲み終わったペットボトルを、敢えてテーマに選んだのか?

・・・・・・といった疑問である。

 確かに、昨今のケータイ小説市場においては、「飲み終わったペットボトル」略して「NOPB」というテーマは年々下火になってきている。いや、元々火などついていない。火花すら上がっていない。少し前のCMで、阿部寛がこのNOPBを得意気にひねりつぶしたりしてエコをアピールしていたこともあったが、ケータイ小説のテーマとしては、完全に「オワッテル」素材、いや、「ハジマッテナイ」素材であることを、筆者自身もよく理解しているつもりだ。
 ではなぜ、今敢えて「飲み終わったペットボトル」なのか?
 一言で言えばそれは―


たまたま、目の前にあったから



 その一語に尽きる。
 今、「おぉぉおい!!たまたまかい!」と誰かが突っ込んだような気がしたが、気のせい、気のせい。「高山さんに、コメディ祭3の作品無茶振りされたけど何も思いつかないから、焼けを起こしたんだろ!」という率直な意見も聞こえてくるような気がするが、右から左に聞き流すことにする。
 それならば!
 急に鼻息を荒くして、筆者は逆に読者にこう問いかけたい。

 なぜ君は、「飲み終わったペットボトル」がテーマになり得ない、と決めてかかるのか?!

 そもそも、人類の発展は往々にして、このような取るに足りないと思われている事物の観察に端を発しているのではないだろうか。日本を代表するといっても過言ではない日本人のソウルフード、納豆がその良い例だ。茹でてからしばらく置いてあった豆が糸引いてたら、普通は食べずに捨てるところだ。しかし、一説によるとある殿様がそれを観察し「何これ?意外とイケルかも?」と口に入れてみたのが始まりという。お殿様の自由過ぎる行動に、周りで見ていた家来は「お殿様ぁぁぁあああ!!」「ならぬものは、ならぬのです!」などとさぞかし驚いたことだろう。毒見なる職業が存在していた時代背景からして、殿様が腹を下して戦に負けたとでもなれば、家来の責任は重大だ。切腹レベルの大失態になり得る。しかし、たまたま大豆が糸を引き、たまたま自由な殿様がそれを口にして、そこから納豆が始まったのだ。 で、あるならば。「飲み終わったペットボトル」からは、何も新しいものは生まれないと誰が言えるのだろうか。

 というわけで、今筆者の目の前に置かれているペットボトルについて考察してみたいと思う。