レイシェスがロアアールに駆け戻った時──そこは既に、最悪の状況が出来上がっていた。

 三つの派閥が出来上がって、睨みあいを続けていたのだ。

 ひとつは、軍派。

 これまで、彼らは父の従順かつ忠誠心厚い集団だった。

 この領地を、いままで守りぬいて来た誇りもあり、彼らは今回の難問もまた、防衛に徹する姿勢は変わらない。

 問題なのは、二つ目。

 母派だ。

 彼女には、政治的知識はない。

 だから、軍を扱えるはずなどなかった。

 そこで、母は最もやってはならないことをやってしまっていた。

 己の故郷であるロアから、勝手に弟を呼び寄せていたのだ。

 しかもレイシェスの叔父である彼は、自分一人ではなく、幾人かの政治に携わるものも同行させていた。

 ロアの政治を、ロアアールでやろうとしていたのである。

 これに、軍派は激怒したのだ。

 当然である。

 ロアアールの血が一滴も入らない者に、誰の許可もなく勝手に政治をさせようとしていたのだから。

 更に、ロアに早馬を出し弟を呼ぶという、普通ならばあり得ない行為をしてしまったことが大問題だった。

 どんな間者が見ても、公爵家に何かあったと教えるようなものではないか。

 みっつ目は、これはレイシェスが想定していた派閥だった。

 それは、公爵家の血を引く親戚たちである。

 父が死に残された直系は、娘二人だけ。

 しかも、母がひっかきまわしている事態を見て、とても安心して任せてはおけないと思ったのだろう。

 結局、母はロアアールを危険に陥れながら、軍と親戚の2面と、ぶつかる真似をしていたのだ。

 そんな紛糾する会議のど真ん中へ、レイシェスは帰りついたのである。

「ただいま戻りました」

 バタンと広間の扉を開けると、皆が一斉にこちらを向く。

 半分は驚き、半分は顔を顰めているのが分かった。

「レ、レイシェス! そ、その頭はどうしたの!?」

 やつれた姿の母は、立ち上がりながら金切り声をあげる。

 艶のなくなった栗色の髪に、やせた身体。

 額に横皺をいく筋も刻みながら、大きな緑の瞳を見開いている。

 その瞳には、今すぐにレイシェスを責めたてたいという心が、覗きこむ迄もなく浮かんでいた。

「人目を忍ぶために切りました」

 脱ぐ暇もなかったマントを侍女に預け、男服のままで彼女は議場に進み出る。

 母、ロアの叔父、見知らぬ男数人、軍の将軍が三人、そしてロアアールの親戚たち。

 見まわして、面子をまず目に焼き付けた。

 途中で立ち寄った軍の詰所で、このことは耳に入れていたが、本当にひどい状況だと噛みしめる。

 せっかく人目を忍んだ事を、母が無碍にしたことには怒りを覚えていた。

「何という愚かなことを! 伸ばすのに、またどれほどかかると思っているのですか!」

 金切り声をあげる母に、レイシェスは「ああ」と胸が詰まる思いを抱く。

 ロアアールの危機ともいえるこの状況で、そしてこの場で、母が言えるのはこの程度なのだ。

 自分を産んでくれた人である。

 愛を注いでくれたことは、間違いはない。

 だが。

 それとこれとは──別だ。

「母上とロアの叔父上様。あとロアからいらっしゃった方々……全員御退出お願い致します」

 レイシェスは、言った。

 男の恰好をしたところで、男になれるとは思ってもいない。

 声も高いし、身体つきも隠せない。

 けれど。

 ここは、レイシェスが踏ん張るべきところだった。

 ロアアールの公爵になるためには、ここで自分の足で立たねばならないところだったのだ。

 もしかしたら、自分が第4の派閥となってしまうかもしれない。

 けれど。

 ロアアールの未来を賭けたこの場に、ロアの政治は必要ない。

 それだけは、間違いないと確信していた。

「は、母に向かって、な、なんてことを!」

 母は、卒倒せんばかりの大声をあげる。

 大きく振られた頭のせいで、栗色の髪が幾筋も落ちるほどだ。

「レイシェス・ロアアール・ラットオージェンの名において、ご退出をお願い致します」

 ロアアールの公爵に、なるのだ。

 そのための勉強はしてきた。

 そして、勉強だけでは公爵などには、到底なれないことも都でよくよく思い知った。

「次期公爵がおっしゃっているのだ……従うべきであろうな」

 重々しく、老将軍が口を開く。

「それが当たり前の事だ」

 ロアアールの親戚筋も、好機とばかりに同意する。

「私は、ここを一歩も離れませんわ!」

 母は。

 椅子にしがみつくようにして怒鳴り散らし始める。

 この場の誰の目から見ても、それは愚かな行為だった。

 ただでさえ強情な気性が、父というよりどころを失って、精神的に疲弊したせいだろう。

 そんな自分の行動を、まったく冷静に見ることなど出来ないでいるのだ。

「母上は、疲れておいでです……部屋までお連れしてあげて」

 扉の前に控えている侍従たちに、レイシェスは一言を投げかけた。

「レイシェス!」

 間髪入れず、厳しい叱責の声で名が呼ばれる。

 心の根に染みついて来た、母の存在の大きさとこれまでの記憶が、いまにもレイシェスの足元を崩してしまいそうだった。

 女物の靴でなかったのが、よかったのだろうか。

 レイシェスは、ブーツの踵で床をしっかりと踏みしめていた。

 都を出る時の決意が、今も自分を後押ししてくれている。

 髪に、未練がなかったわけではない。

 美しいドレスに、未練がなかったわけではない。

 だが、レイシェスは王都で、『現実』に触れてきたのだ。

 王や王太子、フラの公爵に他の公爵たち。

 優しさなんて、ほんの一握り。

 これから、茨の嵐が吹きすさむ、砕けた硝子の道を歩むこともあるだろう。

 そんな現実の、ほんの入り口を目の当たりにしてきたのだ。

 侍従たちが、遠慮気味に母に近づき、容赦なく払われているのを見つめながら、レイシェスは微動だにせずにいられた。

「姉上……出ましょう」

 ロアの叔父も、さすがに分も理もない自分たちが、このまま議場にいられるとは思っていなかったのだろう。

 弟に諭され、ついに母は悔し泣きで泣き崩れた。

 そんな身体は、侍従たちに抱えられるように連れ出されていく。

 少しずつ遠くなる、母の涙混じりの恨み言が、ようやく聞こえなくなり、レイシェスはほっと吐息をついた。

「お騒がせして申し訳ありません、皆さま……では、始めましょうか」

 いつもの癖で。

 肩あたりの髪を払いかけた自分に気づいたレイシェスは、一度その指先を見詰めた後── 一番奥の席に向かったのだった。