駅から自宅まで、いつもならほとんど全速力で自転車を走らせるのだが、今日の俺は空腹にもかかわらずペダルをのんびりと踏み込んでいる。

 舞を駅まで送り、ひとりになると、当然だが俺は無口になった。星空の下を自転車で走っている、といいたいところだけど、一応T市の中心部を走行中なので、星は数えるほどしか見えない。

 それでも俺は最高にロマンティックな気分だった。

 しかし家の玄関を開けるころには心身ともにクールダウンし、なに食わぬ顔で夕食の席に着く。ここまでは完璧だ、と内心でほくそ笑んだところに、母親の真面目な声が聞こえてきた。

「はるくん。進路はどうするの?」

「まだ悩み中」

「だめじゃない。さっさと決めてちょうだい」

「なにその自分勝手な言い方。俺の進路が未定で困るのは俺なんだから、母さんに指図されたくないね」

「あら、いつからそんな生意気な口を利くようになったのかしら。この私に向かって!」

 母が目を細くしてフンとそっぽを向く。それからドンドンと床を踏み鳴らしつつキッチンに引っ込んだ。完全にいじけてしまったらしい。

 向かい側から妹の笑佳がおそるおそる話しかけてきた。

「なんかママ友とお茶して、そういう話題になったみたいよ。はる兄の志望大学が未定っぽいことを言ったら『のんびりしすぎ』って他のママに笑われたらしい。……もしかしたらママ泣いてるかも」

 俺はギョッとしながらキッチンのほうへ視線をやった。そんなことで泣くなんてガキじゃあるまいし、と心の中でつぶやきながら、仕方なく立ち上がる。

「放っておけば?」

 横から冷静な弟の声が聞こえてきた。

「どうせすぐに立ち直るよ」

「ま、そうだな」

 ガキよりもガキっぽい俺の母親は、自分の思いどおりに物事が進まないとすぐにいじけたり、泣いたりする。本当に面倒くさい。

 しかし母が言うことにも一理ある。

 高校生活もほぼ折り返し地点なのに、進路を決めかねている俺はあまりスマートではない。ゴールがどの方角にあるのかを知らないまま、やみくもに走っているようなものだ。

(やっぱり進路って重要だな)

 俺は、普段の動作は緩慢なくせに、ものすごい勢いで酢豚を口に運ぶ隣の弟を見た。

「寛人はどこの大学狙ってるんだ?」

「一応KO大」

 あっさり返答されて、俺は口を半開きにしたまま絶句した。

「はる兄は?」

 笑佳が興味津々な目で俺を見る。

「だから、悩み中だって言ってるだろ」

「でも候補はいくつかあるんでしょ? 国立? 私立?」

「だから、未定なんだよ」

「でも私、はる兄は国立って感じがするんだよね。ひろ兄は私立大が似合ってる」

 そう言って笑佳はうんうんと頷いた。自分の思いつきに満足しているらしい。

「つまり俺は努力家で、寛人は金食い虫ってことだな」

「俺のどこが金食い虫なんだよ! 俺が金の卵で、兄貴は玉虫色の卵じゃないか」

「玉虫色!? 意味がわからない」

「兄貴はいつも余裕そうなふりして、みんなにいい顔して、女子にもモテて、だけどなに考えているか全然わからない」

「それのどこが悪い?」

 寛人は突然口を閉ざした。そして俺から目をそむけると、ふくれ面でため息をつく。さっきの母親と同じ表情だ。

 俺もため息をついて、食事を再開する。

 こうしてロマンティックな夜は、身近な面倒くさい人間によってぶち壊されてしまうのか――。

 早くこの家から出たい、と俺は酢豚を飲み込みながら思う。そうなるとやはり県外の大学を目指すべきだろう。

 だけどおそらく舞は県内の大学を志望するはずだ。

 以前話題にのぼったH大なら、舞も俺も自宅通学が可能なのだ。なにしろキャンパスは、夏期講習に通った予備校から歩いて5分のところにある。

(どうしたものか……)

 寛人が私大に行くなら、俺は国公立大を目指すべきだろうとも思う。笑佳も含め、子どもを3人とも私大へ進学させる余裕が、我が家にあるとは思えない。

 現時点で誰にとっても都合がいいと考えられる俺の進路は、県内の国立大学であるH大を志望することだ。H大は一応、旧帝大のひとつに数えられる大学であり、ネームバリューの点では申し分ない。

 それにもしかしたら舞とともに大学生活を送ることができるかもしれない。

(やっぱりこれが最高の選択肢じゃないか!)

 ついでにあわよくばひとり暮らしができたら、家族の目を気にすることなく舞と会えるのに……と、暴走する俺の思考を、「ごちそうさま」という弟の声がさえぎった。

 続いて椅子がガタッと鳴る。



「兄貴はいつになったら本気になるんだよ。必死になって無様な姿をさらすのが、そんなに嫌なのかよ。だけどそんなもんじゃないだろ、兄貴の実力は」



 俺よりも背の低い弟が、立ち上がって俺を見下していた。

 その瞳に挑発の色を見て、俺は心臓を握りつぶされるような錯覚に陥った。

 寛人は茶碗を持ってキッチンへ向かう。だが顔を上げた途端、彼は立ち止まった。

 俺も笑佳も、寛人の視線を追い、そして目を見張る。

 キッチンの入り口に、俺たちの母親が、今まで見たこともない形相で腕組みをし、寛人の進路をふさいでいた。