(……っ)
不意に寒気を感じて、外にちらりと目を遣ると、もうすっかり暗かった。
少し雪も降っているかも知れない。今年は遅かったから。
「…ん…。鈴(りん)ってば!」
肩を揺さぶられて、一時の外への意識は何処かへ飛んでいってしまった。
「早く支度せんと間に合わへんのと違う?」
話し掛けて来たのは菖蒲(しょうぶ)。
彼女とは同室で、ここへ来たのも殆ど同じ頃だから隔たりも無く話せる仲ではある。
たまに鬱陶しい事もあるけれど。
私は目線を菖蒲に向けて、大丈夫、とだけ口を動かした。
髪は結ってしまったし、着付けも十分、後は紅を引けば終わり。
ただ、なんとなくそうしたくなかった。
「鈴は、確かお座敷に上がるの初めてやったね」
不意に、くつり、と菖蒲が笑った。
「緊張してる?」
ああ。
解っているのに聞くのか。
菖蒲は。
「当たり前でしょう。ただの新造が、太夫を贔屓にしてる様な人のお座敷に上がらなきゃいけないのに。」
そう。私は遊女。
京にある遊廓の中にいる、ちっぽけな存在。
その中でも位が一番下の新造の仕事なんて、殆ど雑用。
の、筈だったのだけれど。
「なんで私が…」
今日は上客からの指名がかち合ったとかで、私が太夫の代理でお座敷へ上がることになっていた。
「まあ、滅多にこんなことあらへんし」
にこにこと笑いながら、菖蒲が私の頬を摘む。
「鈴は可愛い顔やから大丈夫。それに」
それに、
もし、上手くいったら身請けしてもらえるかもしれへんよ?
「身請け…、なんて」
身請け。それは全ての遊女にとって、殆ど叶う可能性の無い夢。
この、遊廓という籠の中から解放されるという、夢。
時折、将軍からすら指名があるという遊女の最上位、太夫でさえ、一度は見たであろう、夢。
「そんなの、」
有り得ない、と口から出掛けた言葉は襖が静かに開く音に遮られた。
「鈴、支度は、」
入ってきたのはこの遊廓の1角を取り仕切る主、三ツ屋信昭(みつや のぶあき)。
穏やかに細められた目と柔和な雰囲気とは裏腹に、この遊郭の一角を担うほどの権力者だと聞いている。
「あ…、はい。」
少しだけ色を濃くした紅を引いて振り向く。
派手な色だけれど、好きな、朱色。
浅葱色の着物とよく合うから。
「お見えになりはった。鶴の間や。」
何時もどおりに細められた目に、なんとなく褒められている気がした。