「これ…」

萌子が『人工中絶同意書』と書かれた用紙を差し出すと、杏奈の顔色がさっと変わった。

「人の部屋探るなんて最低!」

杏奈はベッドから飛び起き、紙を萌子の手から奪い取る。

「麻人くんには言ったの?」

萌子はベッドに潜りこんだ杏奈のそばに寄り、聞く。

「言ってない。麻人は関係ない。」

「麻人くんの子じゃないの?」

「…」

何も答えないとはどういうことなのか。萌子は苛立った。

「誰の子なの!」
つい口調がきつくなった。

いきなり杏奈が布団を跳ね除け、上半身を起こして叫んだ。

「麻人だよ!でも関係ないの!
別れたから!生まないの!堕ろすの!
子供なんていらないの…」

杏奈は言葉を重ねながら、段々と涙声になる。

「それなのに、なんでこうなっちゃうの…」

杏奈は嗚咽し始めた。


萌子は黙り込んだ。

二人の間に何があったのか萌子にはわからない。

でも、こんなことになっているのに、別れたから麻人は関係ないなどということがあるわけがない。


「杏奈、麻人くんだってもう社会人なんだから責任取らないとダメだよ。
関係ない事ない。
だからちゃんと話し合いなよ。」

杏奈の背中をなでさすりながら萌子が言うと、杏奈は涙で濡れた顔を上げ、萌子の手を払い除けた。

「お母さんだって、前のお父さんに女の人がいて、苦しんでいたじゃない。
私にもそうなれっていうの?」


前夫と離婚したのは杏奈が小学一年生の終わりだった。

幼い杏奈は色々見て、感じていたのだろう。

「何も無理に生めって言ってるんじゃないよ。杏奈がどうしても嫌なら仕方ないよ。でも、麻人くんにもちゃんと事実を話さないと。」

「…うん。」
杏奈はやっとうなづく。

「今度、病院行く時、お母さんも付き添うから。」

萌子はそう言って杏奈の部屋を出た。




仕事帰り、自宅近くの公園に立ち寄った杏奈は、街灯に照らされたベンチに座る。

高校生の時、学校帰りによくこの公園のこのベンチで麻人と語り合った。

あの頃、杏奈の世界は麻人中心だった。二人はお互いを想いあっていた。


杏奈はバッグからミントのスプレーを取り出し、手首に吹きかける。

スプレーの残りは半分を切っていた。

「これなくなったら、どこで買えばいいのかな…」

杏奈はスプレーをバッグにしまいながら呟いた。
時刻は午後九時半をすぎていたが、こんな話は自宅からでは出来ない。

もう麻人の仕事は終わっている筈だ。
携帯を取り出し、麻人を呼び出す。

もう二度と掛けまいと思っていた番号。

麻人はすぐに出た。