プロローグ


 薄い雲が月を阻む夜だった。
 身を切るような冷たい風が遺跡の隙間を哀しい音と共にすり抜けていく。
 いや、それは遺跡とは到底呼べぬものだった。
 瓦礫の残骸。
 破壊された時のままの“都市”に生命の気配は希薄だったが、そんな場所でも集落としては確かに機能していた。
 かろうじて原形を留めているだけの建物の所々からはボロ布を纏い寒さをしのぐ世捨て人の嘆きが聞こえてくる。
 その瓦礫の集落に、不似合いな人影が二つ。
 外套で頭から踝(クルブシ)までをすっぽりと覆っていたが、毛皮があしらわれた仕立ての良い厚手のそれは、この集落に住む者が逆立ちしても手にできぬ高価なものであるとわかる。
「何故、私にこれを?」
 今しがた手渡されたばかりの木箱を軽く振って示した男の声は鋭利な刃を思わせる、命令することに慣れた者のそれ。
 対するもう一つの影が低く笑う。
「勘違いするなよ。今のおれにはあんたが持つ地位が必要なんだ」
 外套から見える形の良い唇から紡がれた言葉に、男は木箱を懐にしまいこんだ。
「裏切り者と謗(ソシ)られても、か」
 それは非難ではない。
 むしろ可笑しいと言わんばかりの口調。
「選べる道が他にないんだ。好きなように呼ばせておけばいい」
 裏切り者と呼ばれることに頓着しない男は、それでも不本意そうに口を曲げた。
「ふ……。よい覚悟だ。信用に足る男は私にとっても貴重だ」
 上に立つもの特有の声音。
けれどその物言いの割に男の声は若い。
 男盛りといったところか。
 全てを凍らせるような風が一際強く彼らに吹き付けた。
 もう一方の男よりも少し背が低い男は女性のような白い手でフードを抑えた。
「さて、では行こうか。この寒さ、温室育ちの私には少々堪える」
「温室育ち、ねぇ……」
 風によって顔が顕になった男は瞳を伏せて喉を鳴らした。
 髪が揺れる。
 薄い月明かりの中で尚、鮮やかに浮かび上がるその色は闇より深い紅だった。