あの日、私は恋に落ちたのだ。病院の廊下で涼さんに声をかけていただいたときに。
どうして今まで気づかなかったんだろう……?
今となっては、この気持ちをどう伝えたらいいのかがわからない。
もともとが、利害一致の契約にしかすぎない恋人だったのだ。
今さら、「好きです」なんて言っていいものなのか……。
「私、都合が良すぎないかしら……」
思いを口にしたとき、「真白様」と廊下から声をかけられた。
「何? 川瀬さん」
川瀬さんは住み込みのお手伝いさんのひとり。お手伝いさんの中では一番長く藤宮に仕えている人。
「あの、会長がお呼びです」
「っ……」
「それから」と言いづらそうに言葉を続ける。
「芹沢様もお越しです」
「えっ!?」
私は急いで障子を開ける。
「川瀬さんっ?」
彼女は理由など知らされてはいないだろう。わかってはいても、訊かずにはいられなかった。
「……病院での噂の件かと思います」
病院の噂――脳裏に浮かぶは「婚約解消」の文字。
どうしたら……。私、どうしたら!?
身体から血の気が引くのを感じた。
「こちらを預かってまいりました」
川瀬さんにメモ用紙とも言えない紙を渡される。
「芹沢様からです」
しっかりと手に握らされたそれを凝視する。
涼さん、から……?
急いで紙を広げると、「私に話を合わせてください」とだけ書かれていた。
走り書きだったことが一目瞭然――
涼さん、どうなさるおつもりなのですか……?
「会長のお時間の都合もございます。早く応接室へ……」
川瀬さんに急かされ部屋を出た。
「失礼いたします」
応接室の障子を開けると、テーブルを挟んだソファーに父と涼さんが掛けていた。
私はどちらに座るべきなのか……。
悩んでいると、
「真白さん、こちらへ」
涼さんが席を立ち、手を差し出してくれる。
「ほぉ……どうやら噂は単なる噂のようじゃの?」
ソファーに掛けるなり父に問われる。私はなんと答えたらいいのかがわからない。
息をするのを忘れそうなほどに緊張していた。すると、
「火のないところに煙は立たないものです」
耳を疑うような涼しい声が隣から聞こえた。
それは噂を是するも同じ。
何を、何を仰るつもりなのですかっ!?
「ほぉ……? それはどういう意味かぜひ知りたいのぉ」
傍目にも父が面白がっているのがわかる。髭を手でいじりながら、「続きはどうした?」とでも言うような仕草をする。
「お付き合いを認めていただきたくこちらにご挨拶に伺った際にもお話させていただきましたが、現時点ですぐに結婚どうこうは考えていない……と、そう申しましたのを覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「おぉ、そんなことも言っておったな? あのときは真白が大声を出すなぞ珍しいものを見たせいか、ほかのことをほとんど覚えておらんでな」
涼さんは、
「そうでしたか」
と余裕の面持ちで相槌をうつ。
「院内で婚約、結婚間近だという噂が持ちきりになった際、私は同じことを申しました。お付き合いに関しては肯定しておりますが、結婚に関しては何ひとつ話しておりません」
「くっ……おぬし、なかなか狡賢いのぉ」
父はくつくつと笑い、
「それでは、真白が蔑ろにされているようではないか」
けれど、涼さんはピクリとも動じなかった。
「そのようなつもりはございません。ただ、職場での浮ついた噂は迷惑甚だしいのと厄介だと思いましたので、お付き合いすることはご了承いただいてますが、『婚約』のお許しを得たわけではない、と……そう申し上げたつもりだったのですが」
涼さんはにこりと笑い、
「言葉の捉え方は実に三者三様ですね」
父の応酬にひるまず答えた。
私は、ただ、涼さんの隣に座っているだけだった。
検査当日、私はいろんな意味で緊張していた。
病院へ行ってどんな目で見られるのか、とか。涼さんと会ってどんな話になるのか、とか……。
大嫌いな検査や検査結果よりも、そちらの比重のほうが大きかった。
「真白様、今日は検査室まで付き添い命令が出ておりますので、そのようにさせていただきます」
「え……?」
びっくりして顔を上げた私に、運転席の武さんが小さくため息をつく。
「病院でのお噂はご存知ですね? 何か問題が起こるとは思っておりません。ですが、紫がとても心配していました」
「お兄様が?」
「えぇ、ご自宅で紫を避けておいでだったのでしょう?」
「…………」
「紫は真白様が何かに悩んでいることには気づいていますが、その内容は話してくれないとわからないと申してました」
その言葉に何も答えられず、黙り込んでいるうちに病院に着いた。
車でいつものように正面玄関に乗り付けると、警備員がひとりやってきて運転席の武さんと交代する。
武さんにドアを開けられ、院内へと足を踏み入れる。自動ドアが開き、一歩踏入るまでもなく人の視線が自分に集まるのがわかった。
いつもと何も変わらないはずなのに、前に進むのが怖い――
意を決して顔を上げると目の前には武さんの背があった。
「行きますよ」
「武さん、ありがとうございます」
小さく、その広い背中に呟いた。
検査室の前に着くと武さんは廊下の隅に立つ。
「私はこちらでお待ちしております」
名前を呼ばれ検査室に入ると、看護師さんが検査前の説明を始める。何度か聞いたことのある説明を。
この看護師さんからは身を裂かれるような鋭い視線は向けられない。そんなことにすらほっとしていた。
看護師さんが先生を呼びに行く束の間、検査室でひとり呟く。
「……情けないわね」
「何か仰いましたか?」
「っ……!?」
「おはようございます」
いつもと変わらない表情、声音、態度の涼さんが検査台の脇に立っていた。
「お、はようございます」
麻酔が効いていて、変な発音になりつつも挨拶を返す。
「それではどのくらい回復しているのかを見ていきましょう」
涼さんの言葉を合図に検査が始まった。
検査が終わり、診察室に呼ばれる。
「さて、どうしましょうか?」
急に切り出され、なんの話をしていただろうかと悩む。自分は今、診察室に呼ばれて入っただけだと思うのだけど、どこから、なんの話の続きだっただろうかと……。
「先日の件です。会長にああは申しておきましたが……」
さもなんでもないことのように言う。
私の父は無駄に威厳だけはあると思う。どんな人間でも萎縮させ屈服させる雰囲気を纏い、そうさせるだけの力も何もかもを持っている。
けれど今、目の前にいるこの人にはそんなものは無関係、というように感じた。
「婚約破棄説は打ち消せたものの、どうしたことか、結婚まであと数秒説が浮上しています」
「っ……!?」
何をどうしたらそんなに早いペースで噂が二転三転し、広まっていくのかしら――
私はうろたえるばかりだというのに、涼さんはクスクスと笑っている。
「迷惑な話ですが、人の口には戸が立てられないとはよく言ったものですね」
「……どうして、どうしてそんなに冷静でいられるのですか?」
「さぁ、どうしてでしょう?」
彼は首を傾げてこちらを見る。決して真正面から見られてるわけではないのに、心臓が駆け足を始める。
思わず下を向くと、
「どうなさいますか?」
と訊かれた。
何を……?
「実はですね、またしても会長に呼び出されているのですが……」
涼さんはデスクに置かれたカレンダーを見ながら言う。カレンダーは九月になっていた。
「今度は何を……?」
「いつまでこの状態でいるつもりだと訊かれました」
一気に血の気が引く。
「どうお答えしたものかと。このままでは本当に結婚することになってしまいそうですが……」
「……あのっ」
その先の話を聞きたくなかったのか、ただ思わず口を挟んでしまったのか、自分でもわからない。
「あなたの胃はだいぶ良くなっている。出血もきれいに止まっているし、炎症も起こしていない。もう、投薬の必要はないでしょう。このタイミングが契約解消のラストチャンスかと思いますが……」
「――あのっ」
「なんでしょう?」
真白、きちんと、自分の気持ちを……人に流されてばかりじゃなくて、流れに身を任せてるばかりじゃなくて、ちゃんと自分で――
「あのっ、私ではだめでしょうか!? ……本当の、本物の恋人に……婚約者になってはいただけませんか?」
今まで生きてきた中で一番勇気がいった。けれど、それに返ってきた答えは、
「それは困ってるからですか?」
ここで挫けちゃだめ……。
「違います。あの……私……私っ、初めてお会いしたときに一目惚れしてしまったみたいなんですっ」
言えた。けれど、涼さんの表情を見れるほどの余裕はなかった。
沈黙という空気が肌に痛い。
「それは、愛の告白と解釈してもよろしいのでしょうか?」
……え?
顔を上げると、こちらをじっと見つめる双方の目があった。
「――はい」
答えると、涼やかな顔がにこりと笑む。
「それでは……藤宮真白さん、私と結婚してください」
「…………」
「返事は?」
「はい……」
「では、今週の土曜日に会長お会いする際にはそういう話の方向で」
涼さんは淡々と話を続け、終わらせた。
「涼さん……?」
「なんでしょう?」
なんでしょうって……。
「涼さんは……涼さんはそれでよろしいのですか?」
当たり前な、素朴な疑問だったと思う。
「えぇ、構いませんよ?」
「こんな……こんな成り行きのような形で結婚が決まっても……ですか?」
生涯の伴侶を決めることを安易に考えすぎてはいないだろうか……?
「――もとより、どうでもいい人間の交際相手を買って出るほど私はお人好しではないんですよ」
口端を上げてニヤリと笑った。二ヶ月ちょっとお付き合いしてきたけれど、こんな表情は初めて目にした。
「……互いが一目惚れというのも悪くないでしょう?」
その週の土曜日、涼さんの誕生日に結納の日取りが決まった。
私と涼さんは正式に婚約をし、私の大学卒業と同時に彼と結婚した。
涼さんと出会ってから今日で一年が経ち、私のお腹には新たな命が宿っている。
窓から外を見ていると、背後に気配を感じた。
「今年は雨でしたね」
外を見たまま話しかけると、彼は私の隣に並び、
「あぁ……今日は七夕でしたか」
私の隣には、今もあのときと同じ人が並んでいる。
「雨空の上にはちゃんと天の川はあります」
穏やかな顔でそう言うと、
「体身は冷やさないように気をつけてください」
とそれだけ言い残し、書斎へと戻っていった。
涼さんは覚えているかしら……? 私たちが出逢った日が七夕だったということを。
後ろ姿が見えなくなり、私はまた窓の外へと視線を戻す。
「……そうね、こちらからは見えないけれど、雲の上には間違いなく天の川があるのだわ」
環境によって見えないものがあったとしても、実在するものはなくなったりはしない。
人の目に赤い糸ははなかなか見えない。けれど、きっとそれは存在する。
誰かと誰かをつなぐ赤い糸が――
どうして今まで気づかなかったんだろう……?
今となっては、この気持ちをどう伝えたらいいのかがわからない。
もともとが、利害一致の契約にしかすぎない恋人だったのだ。
今さら、「好きです」なんて言っていいものなのか……。
「私、都合が良すぎないかしら……」
思いを口にしたとき、「真白様」と廊下から声をかけられた。
「何? 川瀬さん」
川瀬さんは住み込みのお手伝いさんのひとり。お手伝いさんの中では一番長く藤宮に仕えている人。
「あの、会長がお呼びです」
「っ……」
「それから」と言いづらそうに言葉を続ける。
「芹沢様もお越しです」
「えっ!?」
私は急いで障子を開ける。
「川瀬さんっ?」
彼女は理由など知らされてはいないだろう。わかってはいても、訊かずにはいられなかった。
「……病院での噂の件かと思います」
病院の噂――脳裏に浮かぶは「婚約解消」の文字。
どうしたら……。私、どうしたら!?
身体から血の気が引くのを感じた。
「こちらを預かってまいりました」
川瀬さんにメモ用紙とも言えない紙を渡される。
「芹沢様からです」
しっかりと手に握らされたそれを凝視する。
涼さん、から……?
急いで紙を広げると、「私に話を合わせてください」とだけ書かれていた。
走り書きだったことが一目瞭然――
涼さん、どうなさるおつもりなのですか……?
「会長のお時間の都合もございます。早く応接室へ……」
川瀬さんに急かされ部屋を出た。
「失礼いたします」
応接室の障子を開けると、テーブルを挟んだソファーに父と涼さんが掛けていた。
私はどちらに座るべきなのか……。
悩んでいると、
「真白さん、こちらへ」
涼さんが席を立ち、手を差し出してくれる。
「ほぉ……どうやら噂は単なる噂のようじゃの?」
ソファーに掛けるなり父に問われる。私はなんと答えたらいいのかがわからない。
息をするのを忘れそうなほどに緊張していた。すると、
「火のないところに煙は立たないものです」
耳を疑うような涼しい声が隣から聞こえた。
それは噂を是するも同じ。
何を、何を仰るつもりなのですかっ!?
「ほぉ……? それはどういう意味かぜひ知りたいのぉ」
傍目にも父が面白がっているのがわかる。髭を手でいじりながら、「続きはどうした?」とでも言うような仕草をする。
「お付き合いを認めていただきたくこちらにご挨拶に伺った際にもお話させていただきましたが、現時点ですぐに結婚どうこうは考えていない……と、そう申しましたのを覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「おぉ、そんなことも言っておったな? あのときは真白が大声を出すなぞ珍しいものを見たせいか、ほかのことをほとんど覚えておらんでな」
涼さんは、
「そうでしたか」
と余裕の面持ちで相槌をうつ。
「院内で婚約、結婚間近だという噂が持ちきりになった際、私は同じことを申しました。お付き合いに関しては肯定しておりますが、結婚に関しては何ひとつ話しておりません」
「くっ……おぬし、なかなか狡賢いのぉ」
父はくつくつと笑い、
「それでは、真白が蔑ろにされているようではないか」
けれど、涼さんはピクリとも動じなかった。
「そのようなつもりはございません。ただ、職場での浮ついた噂は迷惑甚だしいのと厄介だと思いましたので、お付き合いすることはご了承いただいてますが、『婚約』のお許しを得たわけではない、と……そう申し上げたつもりだったのですが」
涼さんはにこりと笑い、
「言葉の捉え方は実に三者三様ですね」
父の応酬にひるまず答えた。
私は、ただ、涼さんの隣に座っているだけだった。
検査当日、私はいろんな意味で緊張していた。
病院へ行ってどんな目で見られるのか、とか。涼さんと会ってどんな話になるのか、とか……。
大嫌いな検査や検査結果よりも、そちらの比重のほうが大きかった。
「真白様、今日は検査室まで付き添い命令が出ておりますので、そのようにさせていただきます」
「え……?」
びっくりして顔を上げた私に、運転席の武さんが小さくため息をつく。
「病院でのお噂はご存知ですね? 何か問題が起こるとは思っておりません。ですが、紫がとても心配していました」
「お兄様が?」
「えぇ、ご自宅で紫を避けておいでだったのでしょう?」
「…………」
「紫は真白様が何かに悩んでいることには気づいていますが、その内容は話してくれないとわからないと申してました」
その言葉に何も答えられず、黙り込んでいるうちに病院に着いた。
車でいつものように正面玄関に乗り付けると、警備員がひとりやってきて運転席の武さんと交代する。
武さんにドアを開けられ、院内へと足を踏み入れる。自動ドアが開き、一歩踏入るまでもなく人の視線が自分に集まるのがわかった。
いつもと何も変わらないはずなのに、前に進むのが怖い――
意を決して顔を上げると目の前には武さんの背があった。
「行きますよ」
「武さん、ありがとうございます」
小さく、その広い背中に呟いた。
検査室の前に着くと武さんは廊下の隅に立つ。
「私はこちらでお待ちしております」
名前を呼ばれ検査室に入ると、看護師さんが検査前の説明を始める。何度か聞いたことのある説明を。
この看護師さんからは身を裂かれるような鋭い視線は向けられない。そんなことにすらほっとしていた。
看護師さんが先生を呼びに行く束の間、検査室でひとり呟く。
「……情けないわね」
「何か仰いましたか?」
「っ……!?」
「おはようございます」
いつもと変わらない表情、声音、態度の涼さんが検査台の脇に立っていた。
「お、はようございます」
麻酔が効いていて、変な発音になりつつも挨拶を返す。
「それではどのくらい回復しているのかを見ていきましょう」
涼さんの言葉を合図に検査が始まった。
検査が終わり、診察室に呼ばれる。
「さて、どうしましょうか?」
急に切り出され、なんの話をしていただろうかと悩む。自分は今、診察室に呼ばれて入っただけだと思うのだけど、どこから、なんの話の続きだっただろうかと……。
「先日の件です。会長にああは申しておきましたが……」
さもなんでもないことのように言う。
私の父は無駄に威厳だけはあると思う。どんな人間でも萎縮させ屈服させる雰囲気を纏い、そうさせるだけの力も何もかもを持っている。
けれど今、目の前にいるこの人にはそんなものは無関係、というように感じた。
「婚約破棄説は打ち消せたものの、どうしたことか、結婚まであと数秒説が浮上しています」
「っ……!?」
何をどうしたらそんなに早いペースで噂が二転三転し、広まっていくのかしら――
私はうろたえるばかりだというのに、涼さんはクスクスと笑っている。
「迷惑な話ですが、人の口には戸が立てられないとはよく言ったものですね」
「……どうして、どうしてそんなに冷静でいられるのですか?」
「さぁ、どうしてでしょう?」
彼は首を傾げてこちらを見る。決して真正面から見られてるわけではないのに、心臓が駆け足を始める。
思わず下を向くと、
「どうなさいますか?」
と訊かれた。
何を……?
「実はですね、またしても会長に呼び出されているのですが……」
涼さんはデスクに置かれたカレンダーを見ながら言う。カレンダーは九月になっていた。
「今度は何を……?」
「いつまでこの状態でいるつもりだと訊かれました」
一気に血の気が引く。
「どうお答えしたものかと。このままでは本当に結婚することになってしまいそうですが……」
「……あのっ」
その先の話を聞きたくなかったのか、ただ思わず口を挟んでしまったのか、自分でもわからない。
「あなたの胃はだいぶ良くなっている。出血もきれいに止まっているし、炎症も起こしていない。もう、投薬の必要はないでしょう。このタイミングが契約解消のラストチャンスかと思いますが……」
「――あのっ」
「なんでしょう?」
真白、きちんと、自分の気持ちを……人に流されてばかりじゃなくて、流れに身を任せてるばかりじゃなくて、ちゃんと自分で――
「あのっ、私ではだめでしょうか!? ……本当の、本物の恋人に……婚約者になってはいただけませんか?」
今まで生きてきた中で一番勇気がいった。けれど、それに返ってきた答えは、
「それは困ってるからですか?」
ここで挫けちゃだめ……。
「違います。あの……私……私っ、初めてお会いしたときに一目惚れしてしまったみたいなんですっ」
言えた。けれど、涼さんの表情を見れるほどの余裕はなかった。
沈黙という空気が肌に痛い。
「それは、愛の告白と解釈してもよろしいのでしょうか?」
……え?
顔を上げると、こちらをじっと見つめる双方の目があった。
「――はい」
答えると、涼やかな顔がにこりと笑む。
「それでは……藤宮真白さん、私と結婚してください」
「…………」
「返事は?」
「はい……」
「では、今週の土曜日に会長お会いする際にはそういう話の方向で」
涼さんは淡々と話を続け、終わらせた。
「涼さん……?」
「なんでしょう?」
なんでしょうって……。
「涼さんは……涼さんはそれでよろしいのですか?」
当たり前な、素朴な疑問だったと思う。
「えぇ、構いませんよ?」
「こんな……こんな成り行きのような形で結婚が決まっても……ですか?」
生涯の伴侶を決めることを安易に考えすぎてはいないだろうか……?
「――もとより、どうでもいい人間の交際相手を買って出るほど私はお人好しではないんですよ」
口端を上げてニヤリと笑った。二ヶ月ちょっとお付き合いしてきたけれど、こんな表情は初めて目にした。
「……互いが一目惚れというのも悪くないでしょう?」
その週の土曜日、涼さんの誕生日に結納の日取りが決まった。
私と涼さんは正式に婚約をし、私の大学卒業と同時に彼と結婚した。
涼さんと出会ってから今日で一年が経ち、私のお腹には新たな命が宿っている。
窓から外を見ていると、背後に気配を感じた。
「今年は雨でしたね」
外を見たまま話しかけると、彼は私の隣に並び、
「あぁ……今日は七夕でしたか」
私の隣には、今もあのときと同じ人が並んでいる。
「雨空の上にはちゃんと天の川はあります」
穏やかな顔でそう言うと、
「体身は冷やさないように気をつけてください」
とそれだけ言い残し、書斎へと戻っていった。
涼さんは覚えているかしら……? 私たちが出逢った日が七夕だったということを。
後ろ姿が見えなくなり、私はまた窓の外へと視線を戻す。
「……そうね、こちらからは見えないけれど、雲の上には間違いなく天の川があるのだわ」
環境によって見えないものがあったとしても、実在するものはなくなったりはしない。
人の目に赤い糸ははなかなか見えない。けれど、きっとそれは存在する。
誰かと誰かをつなぐ赤い糸が――