その週の土曜日、屋敷へ赴き、ふたり揃って結婚の意志を伝えると、早々に結納の日取りが決められた。
 決めたのはほかでもない会長自身。
 目の前で部下に連絡を入れ、手早くスケジュールを調整したうえで、
「不都合はあるか?」
 と訊いてくる。
 普通は訊いてからスケジュールを空けるものじゃないだろうか……。
 しかし、そんなことは口にしない。
「いえ、ございません」
 平日だろうとなんだろうと、結納の日だと言えば病院は休ませてもらえるだろう。
 藤宮元の下した厳命に誰が逆らえようか――
 結納の日取りが決まると、彼女とその母親は夕飯の準備に、と席を外した。
 こういうときにこそ使用人が役立つものなんじゃないのか?
 不思議に思っていると、彼女が言った。
「私の手料理を食べていただきたいのです」
 と。
 たかが料理――だが、彼女の中では俺とは違う価値、もしくは意味があるようで、嬉しそうに笑っては、足取り軽やかに応接室をあとにした。

 俺は目の前の人間に向き直る。
「すでにご存知かと思いますが、私は身寄りがおりません。両親は交通事故で亡くし、祖父母も他界しております。兄妹はおらず、親戚縁者とも疎遠。結納を執り行うにあたり、芹沢には私しかおりません」
 俺の家族構成など、とっくに調べはついているはずだ。そのうえで、結婚することを認めたのだと思いたい。
 なんともいえない不安が湧き起こる。そんなものが湧いたところで過去や今現在が変わるわけではない。
 こんなことならもっと早くに申し出ておくべきだった――
 だが、最初は単なる契約にすぎなかったのだ。
 まさか、本当に結婚することになるとは、自分が藤宮の人間を好きになるとは思いもしなかった。
 想定外すぎる今となっては対処のしようがない。
 後手に回ったことを悔いていると、
「結納は結納じゃ」
 そう言葉が返された。
「おぬしの家族のことなどとうに調べはついておるわ。どんな経緯で施設に入り、どんな幼少期を過ごしたのか。当時の施設の人間からも人柄、素行などは聴取済みじゃ。その施設を出て今もなお、毎月一定額をその施設に寄付していることもの。そのうえで結婚を認めると申しておる。……不服か?」
「……でしたら、なおのこと。形だけの結納は不要かと存じます」
「ふぅむ……親じゃからのぉ。親族の手前、形式に則り娘を家から送り出したい。わかってくれぬか?」
「……下世話な話で申し訳ございません。すでに私の口座もお調べかと存じますが、あるのは一千万に満たない貯金です。婚約指輪くらいは用意できるでしょう。……しかし、そちらが望まれる結納金を支払えるかはわかりかねます」
 両親の残した保険金を元手に株の運用を始めたのは大学生のころ。大学卒業後、奨学金を返済し、給料や株で得た利益はまだそのくらいにしかなっていない。
 勤続二年の医者にしては持っているほうだろう。だが、自分の結婚相手は財閥令嬢――
 腹を据え、義父になろうという人間の顔を見る――と、ぎょっとした顔をしていた。
 目が合い、
「そんなことを気にしておったのか?」
 そんなこととはなんだ……と言いたい。
 結納と言われれば、誰もがそう思うだろう。しかも、この家を相手にするともなれば……。
「芹沢よ、結納金はいらぬ。――代わりに姓を捨て、婿入りせよ」
「……それにどんな意味が?」
「わしがおぬしを欲しいからじゃ」
 くつくつと笑いながら、勤続二年の小童に金など求めぬ、と言い捨てる。
「うちが婿をとるのなら、結納金はこちらが払うべきじゃろうて」
 今度は自分が瞠目する番だった。
「おぬしの医師としての技量は院長のお墨付き。さらには、経営においては紫よりも素質があると見た。紫は何分欲がなくてのぉ。あやつに任せておったら経営はおろか、ボランティアになりかねん。そこで、経営学者と互角に渡り合えるおぬしに、いずれは病院の経営を任せたい」
 年に一、二度会うか会わないか――そんな人間との交流まで調べられているとは思わなかった。
 自分は医学部の出であり、経済学部とは無縁だ。ただ、唯一交流のあった人間が経営学部出身で、在籍中から経営学部名誉教授と食事を共にすることがあった。それは今も続いている。しかし――
「申し訳ございませんが、面倒ごとは好みません」
「くっくっく……そういうところが良いわ。おぬし、藤宮なんぞどうでもいいと思っておるじゃろう?」
「失礼は承知のうえ……自分が関わるのは真白さんと、そのご家族のみに留めたいと思う程度には」
 職場において、ひとりの例外を除けば藤宮一族に好感の持てる人間はいなかった。
「急に正直になりおって。――その潔さと豪胆さが気に入ったわ」
 ずいぶんと変なところを気に入られたものだ。
「真白のことも最初は女避けくらいにしか考えてなかったんじゃろう?」
 ここまで見透かされていては嘘をつくのもバカらしい。
「はい。確かに最初は互いに利害一致の契約に過ぎませんでした。ですが、今は――」
 手で続きを遮られる。
「良いわ、気にしておらん。わしは、藤宮を頼らず真白を守れる男を欲しておる。が……藤宮の名が真白を守ることもあるじゃろう。この苗字にはいい面と悪い側面がある。おぬしならそれをうまく使えるのではないかと思ってな」
 今、自分と話をしている人間は藤宮グループ会長ではなく、「藤宮元」というただ娘のことを案ずる親だった。
「……それが真白さんを守る盾になりえるのならば、芹沢の姓を捨て、藤宮姓の利点を生かしましょう」
 そういうことなら婿養子に入ることに依存はない。もともと自分の姓に執着はなかった。
「それとのぉ……結納の日はおぬしの誕生日であろう?」
「それが何か?」
「なんじゃ……冷めておるの」
「祝われて嬉しい年でもありませんので」
 何も考えずに返答すると、くつくつと笑われた。
「結納は表向きの名文じゃ。その日は、わしの家族がおぬしの誕生日を祝うためだけに集まる」
「っ……!?」
「祝われる覚悟をして来るんじゃな。――親にもろうた命じゃろうて、その日を喜ぶ人間がいるなら素直に祝われろ」
 俺は面食らった。文字通り、面食らっていた。
 施設では、慎ましいながらも毎年誕生日を祝われた。だが、そのころの自分は誕生日の何がめでたいのか、そんなこともわからなくなっていた。
 施設を出てからは、誰に誕生日を教えるでもなく、祝われるでもなく、ただ親の命日として存在していた。
 それがいきなりこんな形で祝われることになると、誰が思うだろうか。
 呆気にとられている俺を一頻り笑うと、急に真剣な目を向けられる。
「真白を頼む」
 男親の、強い眼差しと視線が交わる。
「……言われずとも――」
 答えて一拍置いたころ、
「失礼します」
 と、彼女とその母親、ローラさんが使用人を何人か伴って入ってきた。
 テーブルには彼女の手料理と思われるものが並ぶ。
 そのどれもが、ふたりで行ったレストランで自分がおいしいと思った料理ばかりで驚く。
「……涼さんのお好きなものではなかったですか?」
 控え目に訊かれる。
「いえ……好きなものばかりです」
「良かった」
 彼女はほわりとした笑顔を浮かべた。
「一緒にお出かけした際にお食べになられていたものを必死に思い出して作ったんです」
 その笑顔に、一瞬にして心のしこりが解きほぐされた。
 これからは、彼女が毎年俺の誕生日を祝ってくれるのか……?
 氷に熱い湯が注がれたように、冷たい塊は消えてなくなる。
「今度は、涼さんのお好きな食べ物を教えてください」
 言いながら、使用人たちがテーブルセッティングするのを手伝い始めた。
 その後はローラさんの話術によって、結納という誕生会の話しに移行する。
 食べ物は何が好きか、苦手な食べ物があるか、酒は飲むのか、飲むのなら何を好んで飲むのか……。
 とても彼女の母親とは思えない勢いで質問攻めにされた。
 今まで夫の後ろでおとなしく佇んでいた女性と同一人物か、と悩むほどに。
 けれど、今まで俺に集ってきた女どもとは明らかに違う。質問攻めではあるものの、纏う空気や選ぶ言葉、その端々に気遣いを感じ取れた。
 そして、その気遣いに彼女との共通点を見出す。

 この日、自分のペースを乱されることが多々あり、正直戸惑っていた。
 そんな俺を察してか、彼女が心配そうな視線を投げてくる。
「何か心配ごとでも?」
 まるでなんともない素振りを装い彼女に話しかけると、
「……私ではありません」
 双方の目は俺を捉えていた。
「私なら大丈夫ですよ」
「……本当ですか?」
 責める響きを含まない声が返される。
 簡単すぎる一言では彼女の不安を拭うことはできなかった。
 仕方なしに、本音の一部を話す。
「普段、これほど人と話すことはないんです」
 彼女はきょとんとした顔で目を瞬かせる。
「でも、お仕事では患者様とお話をなさいますよね?」
「えぇ、仕事ですからね。ですが、それは患者の話を聞いたうえで、検査を行い、検査結果や今後の治療方針を話すにすぎません。自分のことを訊かれ、話す状況にはなり得ない」
 そこまで話しても彼女は不思議そうな目で俺を見ていた。
「真白さんと出かけても、それほど会話は続かなかったでしょう?」
「……そうでしたでしょうか?」
 彼女はとくに違和感を抱いてはいなかったようだ。
「どちらかと言うなら、いつも話しかけてくださるのは涼さんでしたし、私が話しかけた際にはきちんとお答えくださっていましたけれど……」
 俺はそんな彼女に笑みを漏らす。
「……あなたに出逢えて良かった。もとは契約とはいえ、付き合ったのがあなたで良かったです」
 心からの言葉だった。
 彼女と出逢わなければ、自分は一生独身を貫いただろう。
 彼女は頬を赤らめ、
「私もです。……初めてお付き合いした方が涼さんで幸せです」
 と、恥ずかしそうに、けれど笑みを添えて答える。

「新居はどうするつもりか?」
 不意にたずねられ、
「まだ考えていません」
 正直に答えると、
「この屋敷は広い。部屋はあまっておるぞ」
 同居の申し出だった。
 自分はそれを断る。
「警護上、そのほうが安全なことは察しますが、できればこの近くに家を建てられないかと考えています。藤山の一角をお借りする、もしくは買うことはできますか?」
「ふむ……では、そのように手配しよう。だが、真白はそれで良いのか? こやつが仕事でいない日は家にひとりきりになるが……」
 彼女は満面の笑みで頷いた。
 しかし、父親の表情は険しい。
「ここを出ても警備体制は変わらんぞ」
「わかってます……。武さんたちにご迷惑をおかけすることも――でも、私は家事をしたいのです。普通の主婦になりたいです。涼さんと暮らす家を、自分で手入れしたいのです」
 控え目ながら、彼女ははっきりと口にした。
「――良かろう。ここから徒歩十分のところに土地が空いておる。そこに結納を含めた結婚祝いとして家を建てよう。警備システムを万全にすれば、それなりのプライベートは守られるじゃろう」
 それが答えだった。
 彼女は嬉しそうに礼を述べる。
「それで良いか?」
 次は俺への確認だった。
「結納金にしてはずいぶんと高額な気がしますが……?」
「それはおぬしを買ってのこと。未来料……将来性を含んでの対価とすれば安いくらいじゃ」
 食えない狸はどこまでも食えない狸だった。
「それにのぉ……手元に置いておきたいのは山々じゃが、真白の胃はここでは治らんじゃろう」
 その言葉に彼女の肩がビクリと揺れる。
「これは人に気遣われるのが苦手での……。使用人の多いこの家が苦手なんじゃ。しかし、結婚して家庭をもち、自分を守ってくれる夫がいるのなら、ここにいる必要もなかろうて……」
 その言葉に納得する。
 思春期を迎えたころから慢性胃炎を抱え、胃潰瘍を繰り返し通院していた意味がようやくわかった。
 見合いのストレスは一端に過ぎず、ほかに彼女の負担になるものがあったのだ。それも、この「家」という毎日を過ごす環境の中に。
 彼女はここが自宅であろうと、家族以外の人間が多くいる場所で心を休めることはできなかったのだろう。そのことに気づきつつも、父親であるこの人は娘から護衛を外すことはできなかったのだ。
「真白はおとなしいが、ぞんがい手がかかるぞ?」
 狸はニヤリと笑う。
「護衛につく人間のことを考え、人の多いところ、危険が及びそうな場所には決して近づこうとせん。さらには藤山からも出ようとはせん。おぬしはそれとどう向き合う?」
 今までの出かけ先の共通点に合点がいった。警護しやすい場所を選ぶからこそ、迷うことなく返事を得られていたのだと。
 どれだけ周りを気遣えば気が済むのか……。
 こんなことではストレス地獄で胃に穴が開いてもおかしくもなんともない。
 そう思ったとき、はっとした。
 こういったことからも……ありとあらゆるすべてから彼女を守ろう。心も身体も何もかも。
 俺は答える。今までと何も変わりません、と。
 彼女の父親、藤宮元が俺に提示した条件はただひとつ――何にかえても娘を守れ。
 この約束、決して違えることなく守りましょう。
 彼女を守るために権力が必要となるなら、惜しみなく藤宮の名を振りかざそう。
 藤宮の中で権力がいるというのなら、持ち前の狡猾さを駆使して病院を牛耳ろう。
 どんなことからも彼女を守る――俺の命がある限り。
 彼女と彼女の家族に、そして己自身に固く誓った夜だった。



 初めて逢ったあの日から、今日で一年になる。
 窓辺に佇む彼女は妊婦となった。
 その彼女の隣に並ぶと、
「今年は雨でしたね」
 彼女は広い窓から空を見上げ、口にする。
 空は暗いが、彼女の手入れしている庭の草花は生き生きと恵みの雨を浴びている。
 その夏らしい庭を見て心が和む。植物の彩りにではない。彼女の甲斐甲斐しい世話に応えるかのように花をつける植物に、心が和むのだ。これがそこらで売られている花ならなんとも思わないだろう。
「あぁ……今日は七夕でしたか」
 出逢った日が七月七日であることは覚えていたが、それが「七夕」という認識には欠けていた。
 彼女のことだ。きっと織姫と彦星のことでも考えているのだろう。
 今年は会えない、などと心を痛められてはたまらない。
 俺は即座にフォローする。
「雨空の上にはちゃんと天の川はあります」
 自分を見上げる瞳を見返し、「冷えないように」とだけ念を押して書斎へ戻った。

 俺は一年前の患者に感謝しなければならない。
 あの日、あの患者がいなければ病院に行くことはなく、彼女に逢うこともなかった。
 偶然が重なって導かれた巡り合わせ。
 彼女のように「赤い糸」を信じる性質ではないが、今生でたったひとつの運命を信じるのなら、彼女との出逢いを運命と呼ぶのも悪くはないかもしれない――