バス停に降りるなり、男の人はお兄ちゃんの手を振りほどき逃げ出した。

男の人は車をすり抜けるように車道を渡って行く。

お兄ちゃんはチッと小さく舌打ちすると、上着を脱ぎ、やっぱり私に「持ってろ!」と言うと、通りを男の人を追って追い駆けて行く。

お兄ちゃんと男の人の差が縮まって行く。

「お兄ちゃん!ガンバレ!!」

思わず応援してしまう。
手を振る私にお兄ちゃんの怒声が届く。

「響!警察官、呼んで来い!!」

お兄ちゃんの声に、私は慌てて、バス停前にある警察署に駆け込んだ。

「痴漢です!早く来て!!」

私が警察官を連れて車道に出た頃には、お兄ちゃんが男の人を道路に押さえつけていた。

それから事情聴取とかでしばらく拘束された後、私とお兄ちゃんは解放された。

お兄ちゃんはカバンと本を手にすると、男との格闘で吹っ飛んでヒビが入り、歪んだ眼鏡を眼鏡ケースに入れて、ゴミ箱に捨てた。

私とお兄ちゃんは無言のまま、バス停に立った。

でも雰囲気に耐えきれず、私の方から口を開いた。

「眼鏡、割れちゃったね」
「しょうがないさ」
「さっき、すごかったね」

お兄ちゃんはそれには答えなかった。

沈黙が恐い。
昔はあんなに沢山笑ったり、じゃれ合ったりしたのに。
それが今は遠い昔の事みたい。

「あいつ、お前のこと狙ってた」

私は突然のお兄ちゃんの話しにキョトンとして顔を上げた。

「あいつって?」
「痴漢の男」
「え?ウソ!」
「ウソなもんか。俺が席をお前に譲ったから標的を変えたんだ。様子がおかしいからずっと見てた」

お兄ちゃんの話しに心臓が止まりそうになった。

まさかあの時から、お兄ちゃん、私の事、守ってくれたの?

「あー……もう、午前中の講義終わるな……」

お兄ちゃんが時計に目を落とす。
それから、私をちらっと見た。

「さぼって海でも見に行くか?」
「うん!」

昔みたいに優しいお兄ちゃんの目に、私は飛び上がりながら賛成した。