「お客さん、お客さんってば。こっちですよ」

 治安の悪い裏通りを歩いている時、分岐した暗闇から老婆の声がする。いや、都会の暗闇に凄む魔物の類か?

「怖がらないで。彼女にフラれてムシャクシャしているでしょう? 世の中の女どもに仕返ししてやりたいと、心の底で思っていなさる」

 図星だった。思わず足が止まる。

「いいものがあるんですよ。そんなお客さんが満たされるもの……」

「満たす、だと?」

「ええ、そうなんですよ。ささ、こちらにいらしてくださいな」

「お前の方から出てこい。そんな暗闇に足を踏み入れるものか」

「そうでございますか。残念です。罪を犯すことも出来ず、女どもを未来永劫、ただ眺めているがいい」

「貴様」

 元々フラれたばかりだ。カッとなって、足を踏み入れて行く。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 蝋燭一本の明かりに、頭からボロを纏い、何かに腰かけている老婆が浮き上がる。

「俺に何を売り付ける気だ」

「これでございますよ」

 シワだらけの両手のひらに載せ、捧げるように老婆は私に見せた。

「色えんぴつ? それも、ピンク一本じゃないか」

「それはえろ鉛筆って言うんですよ。線をなぞると、いやらしいタッチで描くことが出来る代物です。それで思うがままに、貴方の女性を描けばよろしい」

「そんな事が出来るのか?」

「実際に試されると良い。ほうれ、描いてみなされ」

 老婆が立つと、木箱の上にまっさらな紙が現れる。

 私は鉛筆を奪うと、紙にしがみ付くように描き出した。

 それから暫くして、ボキッと芯が折れたのをキッカケに、私は我に返り、立ち上がった。

「これはお返しします。でも、代金は払わせて貰うよ」

「お気に召しませなんだか?」

 鉛筆が老婆の手に戻る。

「違うんだ。婆さん、目が悪いんだな」

 私は蝋燭を紙に寄せる。

「ほう、これはまた」

「幾らだい?」

「魂の半分……と言いたいところですが、貴方様から頂戴する訳には参りません。残念ながら、闇に導けなかった」

 ──暗闇を出ると、元の薄汚れた裏道だった。

 あの場で服を着た清楚な女性を描いてしまった私は、自分に失望し、そして悟ったのである。