序

 温かな柔らかい風が僕の身体を通り抜けて行く。きっと僕にしか分からない風。
 僕はゆっくりと目を開ける。
 目の中に入ってくるのは向いの窓。そして窓の外では山を鮮やかに染める紅葉。
 僕は今、山の中をゆっくりと走る電車の中にいた。二両編成の小さな電車。
 時折揺れるこの電車は、始発から終点までずっと山の中を走る。今はまだその途中。
 僕は電車の後ろの方に座っていた。僕が腰掛けている紺色のシートは色褪せ、薄くなってしまっている。所々汚れ、所々布が破けてしまっている。この電車が長い間ここを走り続けている証拠。
 天井からぶら下がり揺れている白い吊革も、薄っすら汚れている。
『次の駅は、』
 天井にあるスピーカーから流れてくる声は女性の声。きっと昔に録音し、それを何年も何年も繰り返し使っている。
『お降り口は右側です』
 今まで山の紅葉しか映さなかった窓からは、家々が見え始めた。
 その放送が聞こえても、その家々が見えても、電車が速度を落とし始めても、荷物を持ち上げ降りようと動き出す人は誰もいない。
それでも電車は速度を落とし止まろうとする。
 電車は徐行に入り、静かに無人駅へと近づく。そして静かに停止。
 プシューと言う空気音と共にドアが開く。車両の前の右側のドアと、僕のすぐ左横にあるドア。
 電車から降りて行く人もいなければ、電車の中に入ってくる人もいない。それでも決められた通りに決められた間ドアは開いている。
 開け放たれたドアからは冷たい山の空気が入ってくる。街中の汚れた空気とはまるで違う澄んだ空気。
 決められた時刻まで止まっていた電車はドアが閉まり、また静かに動き出す。
 この小さな電車の中にいる乗客は僕を入れて二人だけ。
 僕の旅はまだ始まったばかり。
 そして、
 僕の仕事も始まる。