(フラれた)

 人生初体験に祐司郎は呆然となっていた。なぜ振られたのか、よくわからない。なにがいけなかったのだろうか。

 この二週間、自問自答を繰り返した。最初は物珍しいとか、自分に靡かないのが悔しいとか、いろいろ思ったが、行きついた先が沙也の飾り気がなくて出張ったところがないことに惹かれているという事実だった。

 単に交際するだけならアクセサリー的な女でもいいだろう。だが、ずっと一緒に過ごすのは、互いにリラックスしていられることが大事で、そこには見栄えなどいらない。自分をよく見せようとしなくていい相手であり、よく見せようとしてくる相手でもない。沙也は祐司郎が持っているいくつものスペックを重視していない。そこがいいのだ。

 沙也といると気疲れすることはない。最初は驚いた味噌の話も、目を輝かせて話している様子は微笑ましく、彼女の好きぶりがよくわかる。きっと味噌旅で関係者から話を聞いている最中も、目をキラキラさせていることだろう。その顔を見たいと思うのだ。いや、沙也がどんな女で、どんな人間なのか、もっと知りたいと思う。

 そして。

(あの味噌汁はなんだかめちゃくちゃうまかった!)

 具だくさんの味噌汁と、具のない味噌汁。どちらもたまらなくうまくて、忘れられない。
 だから悩みに悩みぬいて、二週間が経ち、今日、告白の決意をして臨んだというのに。

 頼み事すれば断られた。なんとか縋って頼み込んだら引き受けてもらえた。今回告白したら振られた。また頑張れば受けてくれるのだろうか。

(フラれた)

 現実がズッシリとのしかかってくる。

(フラれた)

 しょぼんと肩を落とし、席に戻るが仕事をする気になれず、みなが不穏なまなざしを送っている中、帰路についた。なんだかわからないが、早く家に帰って横になりたい。世界はきっと今夜消滅するのだ。きっとそうだ、そう考えながら自転車を走らせ、部屋の前に着いた瞬間、スマートフォンが鳴っていることに気がついた。

(マナーモードにするの忘れてた。誰だろう。死刑執行人かな。それとも世界を破壊する悪魔か、俺の魂を狩りに来た死神かな)

 わけのわからないことを考えつつ、スマートフォンをポケットから取り出して、祐司郎は目を瞠った。

(神南さん!)

 コール音に気持ちが焦ってうまくロックを解除できない。

「くそっ!」

 関係のない場所をタップして画面が展開され、それを閉じたりして、やっと通話開始になった。
 ここはクールに余裕のある対応を、なんて思うのだが。

『もしもし!』

 と、怒鳴るように叫んでいた。

『黒崎さんっ、あのっ』
「…………」

 緊迫感のある声。そして、ぐすっと鼻をすする音。
 泣いている――そう思った瞬間、祐司郎の理性は吹き飛んでいた。

『どうした!? なにがあった!』
『黒崎さんっ、どうしよう、火事になっちゃった!』
「!」
『部屋が水浸しで、大家さんが取り壊すからなるべく早く引っ越してって』
「怪我は!? 怪我はしてないのか!?」
『それは、大丈夫……帰ってきたら、みんな、終わってて、でも……』

 涙声、言葉は切れ切れで、切れた時にひくっとしゃくりあげる声が入る。相当追い詰められていると察する。

『今から行くから、服とか持てるだけ用意しておくんだ』

 祐司郎は自転車を扉の前に置いたまま身を翻し、超早歩きでエレベーターに向った。

『……助けに、来て、くれるの?』
「すぐ行く! 待ってろ!」

 急いで地下駐車場へ行き、車に乗り込んだ。交通ルールを守りながら可能な限り早く沙也の住むハイツへ向かう。そして到着すると、ハイツの前に駐車して部屋へと走った。

「沙也!」

 ドアフォンを押して扉を叩く。すぐに解錠の音がして扉が開いた。

「黒崎さんっ」

 泣き腫らした顔が痛々しい。本人が言うように怪我はしていないみたいだ。祐司郎はひとまずほっと安堵の吐息をついた。

「引っ越ししなくちゃ、でも、でも」

 沙也はだいぶ混乱しているみたいだ。祐司郎はそっと沙也の体を抱きしめた。

「もう大丈夫。俺がいるから。今日はこのまま俺んちに来たらいい。引っ越しの件も心配しなくていい。いろいろ指示するから、まずは帰ろう」

 ぽんぽんと背中を優しく叩き、さすると、沙也は祐司郎の胸に顔をうずめたままうなずいた。

 それから沙也を連れて車に乗り込み、発進させる。豊洲のマンションにはすぐに着いた。

 部屋に案内し、リビングのカウチソファに沙也を座らせ、祐司郎が飲み物を用意している間に、状況が少し変わっていた。というのも、腰をかける沙也の横にフランソワーズがいつの間にかやってきていて陣取っていたからだ。ぴとっと体を寄せている。沙也はそんなフランソワーズの体を愛おしそうに撫でていたのだ。

「たった五日だったのに、ずいぶん慣れたようだね」
「そうですね。それに覚えていてくれたみたい」

 沙也が頭や背中を撫でていると、フランソワーズも気持ちいいのかどうなのか、目を細めたり開いたりしている。

「これ」
「ありがとうございます」

 沙也は祐司郎が差し出したペットボトルのお茶を受け取り、一口二口飲んだ。少しずつ落ち着きを取り戻しているようだ。

 祐司郎はフランソワーズがいる反対側に腰を下ろした。

「それで引っ越しのことだけど」
「……明日、会社を休んで不動産会社に行こうと思います」
「それはそれでいいんだけど、見つかるまではどこかに住まないといけないだろ? 冷蔵庫とかの荷物のこともあるし」

 手を伸ばし、そっと沙也の手を覆うようにして握る。

「しばらくここに住めばいいよ。荷物も丸ごと運べばいい。部屋は余ってるし、全部運び込んでもまだ余るし」
「それはそうですけど、でも……」
「焦って探したら、変な物件を掴む可能性が高い。俺としては、フランソワーズの世話と、俺のメシ、というか味噌料理を作ってもらえたらうれしいしさ」
「…………」

 祐司郎は手に力を込めた。

「さっきも言ったけど、沙也は俺のど真ん中を射抜いた。正直に告白する。誰からメッセをもらっても、ぜんぜんうれしくないんだ。誘われても行く気になれない。高級な店の料理も、そりゃおいしいけど、ピンとこない。なんでだろって思ったら、沙也と出かけて、沙也に作ってもらった味噌汁がうまくて、俺にとってそれがすごくすごく大事なんだってわかったんだ。だから、ずっとじゃなくていいから、せめて落ち着くまでここにいてほしい。おれに沙也を助けさせてほしい。お願いだ」

 驚いたように目を見開いて見つめてくる沙也の瞳が涙に揺れている。そしてポロリと大粒の雫が流れ落ちた。

「沙也はまだ俺のこと好きでなくていい。つきあうって両思いじゃないといけない決まりはないし、両思いになってからつきあうほうが少ないんじゃない? たいていはどっちかがどっちかを好きで、好きな気持ちを伝えて、じゃあってなるだろ? 見合いとか婚活パーティなんかだったら、なんとなくいいな程度でつきあい始めたりもする。俺は沙也が好きだ。だからつきあってほしい。つきあっているうちに、沙也に好きになってもらえればいいし、なれなかったら別れたらいい。チャンスがほしい」

「黒崎さん……」
「もう一回言う。俺は沙也が好きだ。だから守りたい。まずは安心して生活できる場所を提供したい」
「…………」
「返事は?」

 沙也が瞼を閉じると、ぽろぽろといくつもの涙が流れ落ちる。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 ほっと祐司郎の肩が上下に揺れた。そしてもう一度、沙也の体を想いのままに強く抱きしめた。