週初めの月曜はタルいが仕方がない。いや、ここは新たな週の始まりを爽やかな気持ちで迎えて、また一週間頑張ろうと気合いを入れるべきなのか。沙也はそんなことを考えながら出勤し、午前の仕事を終えてランチタイムに入ろうとしていた。

 弁当を持参しているので社食には行かず、開放されている会議室に向かうが、その前に給湯室でお茶を入れていた。

「神南さん」

 呼ばれて顔を上げると、同じHQM部に所属しているがほとんど接点のない女性スタッフが立っていた。

(えーっと、誰だっけ)

 HQM部は正社員と派遣を合わせれば八十人ほどがいる部だ。さすがに顔は覚えているが、名前まではすぐに出てこなかった。

(あ、思いだした。営業四課の橋本さんだ)

「不躾なことを聞くんだけど、黒崎さんとつきあってる?」
「…………」

 他のことを考えているところに質問され、その瞬間はなにを聞かれたのか理解できずに頭の中が真っ白になった。数拍置いてようやく内容を理解し、飛び上がる。

「まさか!」

 橋本の目つきは怪しい。

「どうしてそんなことを?」
「一昨日、銀座で見かけたから。二人でいるところ」
「あ」
「ブティックに入っていったでしょ?」
「あー、確かに」

 冷たいものが背筋を駆け抜けていく。脳みそをフル回転し、言い訳を考える。だが、うまく働かない。

(食事なら偶然会ったので、ご飯食べようってことになったって言えるけど、ブティックは……)

「つきあってるのかなって思ったんだけど、でも黒崎さん、特定の交際相手はいないって話してたし。どういう関係なのかなぁって」

(この人も黒崎さん狙いかぁ。まいったな)

 まったく、舌打ちしたい気分だ。これだからモテ男子に近づきたくなかったのだ。とはいえ、馬鹿正直にそうとは言えないので、必死で言い訳を考えるが、なにも浮かんでこない。二人でブティックに入って服を見ていることにナチュラルな理由など。

「えーと、結論から言うと、つきあってません」
「…………」
「それだけは事実です。ただ、ちょっと頼まれ事をしたので、土曜はそれに協力していました」
「頼まれ事って?」
「それは黒崎さんのプライバシーに関わることなので、私から言うことはできません。気になるなら、黒崎さんに聞いてください」

 胡散臭そうな目つきで見られて、不愉快やら怖いやら。社内でもめ事は起こしたくないし、総務は営業と違って直接売り上げをあげないので少々肩身が狭い立場でもあって、沙也はなるべく相手の感情を逆なでしないよう気をつけながら答えた。

 しかしながら、ふいに橋本の表情が緩んだ。

「神南さんが聞けばいいって言ったって言ってもいいかしら?」
「……どうぞ」
「そ。わかった。ありがとう」

 橋本はいきなりくるりと身を翻し歩き去っていった。完全に姿が消えると、沙也の肩が大きく上下した。

(話しかけるチャンスができてご機嫌になったってこと!? こわー)

 土曜に銀座でショッピングをしているのを見たら、誰しも交際しているのではと思うだろう。橋本の質問には納得するものの、それをわざわざ聞きにくるところに恐怖を覚える。それだけ黒崎を本気で狙っているのか、真逆でゴシップ好きなのか。いや、間違いなく前者だろう。

 それでも黒崎と一緒にいると、こういうことが起きるのだということを痛感した。

(好きならいい。戦うまでだと思う。けど、私は黒崎さんのことを異性として好きなわけじゃないし、ファンでもない。出張中のフランソワーズの世話も、お見合い破壊大作戦も終わった。日常に戻って、もう関わりはない)

 ぐちゃぐちゃ考えてしまうのは、勇仁のせいだ。実は黒崎が帰ったあと、勇仁が二人の関係を追及し、さんざん文句を言ったのだ。黒崎に利用されている、と。

(勇君も勇君よ)

 頼まれて引き受けただけだし、高い食事に服や靴などを贈られたと言ったら急に黙り込んだのだが。それに黒崎は二つの件について、改めてしっかり礼をすると言っていた。

(そういえば、旅行の際の足になるとか言ってたよね。交通費が浮くのはいいけど、それって二人で出かけるってことになるし……)

 さっきの橋本の鋭い目つきを思いだし、沙也がぶるっと震えた。そして決意した。

(もう十分プレゼントしてもらったんだから、改めての礼はきっぱり断ろう)

 うん、と一人うなずいたのだった。


 二週間が経った。黒崎はかなり忙しいらしく、連絡が来ることはなかったし、今も彼の席のほうを見てみるが、席にいる様子もない。外回り中なのだろう。

 そもそも社内では同じ部ではあるがほとんど接点がない。その課、もしくは所属課員になにかあれば、事務のスタッフがやってくるからだ。

 だから祐司郎のことなどすっかり忘れてしまった――わけがなく、礼をするとしつこかった割りになにも言ってこない現状をどう捉えていいのかわからず、悶々とする毎日だった。

 口ではああ言いながらも、実際はもう沙也のことなどどうでもよくなったのか、単純に忙しくてそれどころではないのか。焦らしテクニックなのか、こちらから連絡するのを待っているのか。

(わかんないよ!)

 事態展開中は意識がついていくのに必死で深いことなど考えないけれど、時間的余裕ができるとあれこれ思案してしまう。今も就業中だというのに。

 祐司郎は誰もが認める社内トップクラスの営業マンで、社内外の女性の人気を集めている甘いマスクのイケメンで、高級マンションを数軒を投資でポンと買えるようなお金持ちの家柄かつ本人以外みな医療従事者という家柄。父は理事長、兄は院長、妹は最先端医療技術取得のために渡米中だという。そんな家系の次男坊だ。

 だから今回のお見合い相手の女性も、本人は聞いていないと言っていたが、さぞかし立派な家柄の女性だっただろうと推測する。

 そんな祐司郎とお近づきになれたことは本来喜ばしいはずなのに。

(ホントに黒崎さんが私を想ってくれてるなら、誇らしいのだけど。でもそれは間違いなく違うだろうからね)

 気持ちは下向きなのだ。

 あんな立派な男と交際できれば、沙紀子を見返すことができる(本来は見返す見返さないの問題ではないのだが、趣味はアレでカレシができないとディスる親を、という意味で)。が、勇仁が執拗にやめたほうがいいと言うのを聞くと、そうだと納得してしまうのだ。

(私なんかにはハイスペすぎて合わない。確かに黒崎さんの取り巻きってみんなファッショナブルな美女ばっかりだもんね)

 PPPPPP……

 毎日思考をグルグルさせているそんな沙也のスマートフォンが、祐司郎からのメッセージを知らせてきた。

(黒崎さん! うっ、うっ、うっ)

 焦るあまり、関係のないアイコンをタップしてしまうこと数回。ようやく画面が開いて祐司郎のメッセージが表示された。

(えっ、いいよ、そんなの)

 ようやく少し落ち着いたから先日のお礼をしたい、との内容だ。沙也は反射的に不要の返事をした。

『そう言わずに。こっちの気も済まないので礼をさせてほしい』

(だから、いいって)

 もう一度、不要と送ると、既読になったものの返事がない。あきらめたかと思いきや。

「神南さん」
「ひぃ!」

 横から声をかけられて飛び上がった。
 いつの間に。いや、席にいなかったのは、どこかに身を隠してメッセージを送っていたのだろう。

(確かに、席じゃねぇ……)

 そんなことを考えながら、沙也は横に立つ祐司郎を見上げて無理矢理微笑んだ。

「黒崎さん、どうかしましたか?」
「埒が明かないから出向いてきた。けど、これから外回りだから、悪いけど、帰ってきたら時間を取ってほしい」

 みなが聞き耳を立てていることは明白だ。どう答えるのが正解なのか必死で考えるけれど、焦るばかりで言葉が出てこない。

「聞いてる?」
「聞いてますよ。えーっと、わかりました。お戻りになるまでお待ちしています」
「よかった。じゃあ、よろしく」

 機嫌よく席に戻っていく祐司郎の背を見送ることもできず、沙也はうつむいて仕事をしているフリをした。営業の祐司郎と、いったいなんの話があるのか、と思われていることは明白で、とにかく視線が痛い。

 それからの数時間、文字通り針の筵だった。仕事中なのでわざわざ聞きにくる者はさすがにいないものの、終業時間が来れば橋本のような者が現れるかもしれない。

(し、心臓、痛い……)

 どうしてこんなことになってしまったのだろうと思うが対応を誤ったとは思えない。

(不要だから不要って答えただけなのに!)

 まさかみながいる中、就業時間中に堂々と声をかけてくるなんて思いもしなかった。というか、沙也は祐司郎がなぜこんなに関わってくるのかわからない。

(口説かれてるわけじゃないし、もちろんコクられたわけでもない。や、そんなあり得ないことなんて考えもしてないけど。一緒にいる間も、それらしい雰囲気になったこともないし、そんな話になりかけたことすらない。黒崎さんはなにを考えているんだろう)

 時間が経つほどに、全身冷や汗まみれじゃないかと思うほど、嫌な緊張感が増してくる。きっと顔は青ざめているはずだ。

 そして終業時間がやってきた。

(かっ、帰りたい!)

 祐司郎が戻ってくるまで帰れない。ここで会社を出てしまえば、周囲に祐司郎の用事が私用であると示してしまう。なんとしても、社内のブースかどこかで、仕事関係の相談ということにしたい。

 緊張のあまり震えが起きてくる。時計を確認したら、もう六時を過ぎていて、定時から一時間以上経っていた。ぼんやりしていたら誰かになにか言われそうで、明日でいい仕事ながら集中していたら時間が過ぎていたようだ。だが、それも終えてしまって、することがない。

(どうしよう)

 トイレにでも行こうかと思った矢先、祐司郎が外回りから帰ってきた。

「遅くなってごめん」
「お帰りなさい。えーっと」
「あっちのブースでよろしく」
「……はい」

 まるで死刑宣告でも受けるような、そんな心境の沙也だった。