今日は久しぶりに宮部と飲みに行く。毎日のように袖を通していたスーツから解放され私服で電車に乗るだけで、気分はとても高揚した。

 帰宅ラッシュ時に乗り込む電車は夏の暑さをさらに強調した。片手でつり革を持ちながらもう片方の手で額の汗を拭く中年太りのおじさん。この人だって数十年前、今の俺と同じように就活生を経験したのだと思うと、少し感慨深くなる。そしてその人を煙たそうに見る女子高生たちに僅かな憤りを感じた。一定のリズムで揺れる小さな箱の中で俺はひたすらその世界に没頭することで、他は何も考えないようにした。

 駅に着くとちょうど宮部から店の情報が送られてきた。見覚えのある店名に目を通し位置情報を確認すると、それはバレンタインに琴音と訪れた居酒屋だった。なんとなくやるせない気持ちになりながら暖簾をくぐると、それと同時に大きな音でベルが鳴り店員の元気な声が響いた。あの日酔っ払って寝てしまった俺の記憶にも残るくらい活気のある店だったことを思い出す。そして、そういえば琴音にチョコのお返しをしていないままだったことまで思い出された。そんな俺の気持ちを測ったかのように宮部に名前を呼ばれた。
 予約席と書かれた札がかけてある個室に案内されると、そこに行くまでに既に盛り上がっている他の客を二人で見遣った。

「あのおじさんたちもさ、今の俺らみたいな就活生時代を経て、ああやって社会人になってんだよな」

 ため息まじりにそう言って俺の肩を叩く宮部を見て、電車の中の自分を思い出す。就活生同士思うことは同じなんだと思うとそれが妙におかしくて、俺も「そうだな」と言って笑った。



「でさ、お前最近どうなの?」

 乾杯をしてすぐに宮部が言った。ここで聞かれていることはもちろん就活のことだと思う。ただ、こいつは俺の記憶について知っている。実際にそのことで以前、頑張れと俺の背中を押してくれた。だから宮部の質問の意図を読み取るのはなかなか難しい。

「就活?」

 恐る恐るそう尋ねると、宮部は吹き出した。

「他に何があるんだよ」

 そう言ってグラスを持つ宮部を見て思う。昔から決定的なことは何一つとして言ってこなかったこいつが、あのとき俺の背中を押してくれたのはどうしてだろう。今まで一度だって俺の記憶について聞いてきたことなんてなかった。それなのにどうして急にあんなことを言ってきたのだろう。

「宮部、あのさ——」

「匠真ってさ、嘘ついたことある?」

「は?なんだよ急に」

 俺の質問を遮って唐突に聞いてきた宮部に正直少し腹が立った。そのせいで俺の言い方には多少なりとも棘があったし、あわよくばそれに宮部が怖気づいて話し手を代わってくれればいいいと思っていた。だけどこいつはそんなことで怯むような奴じゃないってことは俺が一番よく知っている。

「俺はめちゃくちゃあるよ、嘘ついたこと。小さいのも含めたらもう数え切れないね」

 そう言って指を折る仕草を繰り返す宮部にひとまず降参する。

「人間誰だって嘘くらいつくだろ」

「おぉ、さすが親友。分かってるね」

 わざとらしく笑顔を作る様子がどこかぎこちなく感じるけれど、とりあえず話に乗っかっておく。なんとなくだけど、あまり先を急いではいけない気がした。

「なに、もしかして牧野さんにまた(・・)何か嘘ついたの?」

「また?俺なんか嘘ついたっけ?」

 飲もうとした酎ハイを口に含む前に止めてグラスをテーブルに置いた宮部は目を丸くして俺の顔を見つめている。

「ほら、お前さ前にお兄さんの彼女に会ってただろ?そのこと牧野さんに隠したじゃん」

 宮部は答えを聞くと「あー!」と大きな声を出して納得したように頷き、グラスに半分ほど残っていた酎ハイを一気に飲み干した。その姿に俺もつられて握っていたグラスを空にした。

「なぁ、匠真。嘘って正義かな?」

 宮部はいい感じに酔っ払っていた。だから唐突に意味深な質問がいくつも出てくるのだと思う。俺は頼んでいた酒のつまみを口に含みながら「さぁ」と適当に返事をした。アルコールに支配された宮部の頭が機能するうちだけそうやって空返事をしておけば、きっとこの時間は過ぎていくだろうと思った。

「——じゃあ悪?」

 どうやらまだ多少頭が働くらしい。壁にもたれながら窮屈そうに座る宮部の視線が俺を捉えて逃さない。正気だろうか。何を考えているかを予想できるほど俺も正気ではなかった。理性を保っていられるほど、素面ではないのだ。

「何が言いたい?」

 鋭い眼光がこちらへ向く。俺の言葉に反応したように俺の目を見るそれは強く鋭いものへと変わった。

「質問に答えろよ。嘘は正義か、それとも悪か」

「そんなの答えて何になる?」

「……別に?何にもならないど」

 埒が明かない。こんなにも会話にならないのはアルコールのせいだろうか。それとも何か他に理由があるのだろうか。どちらにせよ、こんな不毛なやり取りをするために今一緒にいる訳ではない。俺は「もうやめよう」と一言だけ残し、その場を離れてトイレに行った。