この日のキャリアセンターは割と混み合っていて、入り口から覗いてみるだけでも多くの学生の姿が見てとれた。藤山先生と話し込む琴音に気づかれないようにして部屋に入ると、入り口横に設置してある本棚の前で資料を読む学生たちの中に混ざった。

 目の前にある資料を適当に手に取り興味のないそれに顔を向けながら、視界の隅に彼女の姿を捉える。するといつかの中小企業の説明会が思い返された。
 あの日、地元に貢献できるという企業のブースをじっと見つめる彼女を見つけた。本当は地元に帰りたいと思っていることなんて、その表情を見ればすぐに分かった。だけどあの時、その背中を押してあげることはできなかった。

 もし今、君が地元に帰ることを選ぶなら、それでいい。それがいい。遠く離れていつか忘れてしまえるのなら、それが一番いいと俺は思う。


 先生と話し終えた琴音は俺に気づかないまま、後ろを通り過ぎていった。俺は口に出すことなく彼女へエールを送る。頑張れ、琴音。琴音なら大丈夫、俺が保証する。


 彼女が部屋を出ていくのを確認してから先生の方へ向かおうとすると、既にこちらに気づいている様子の先生は大きく手を振りながら待っていた。

「お疲れさま。面接どうだった?」

 琴音と見ていたと思われる資料を片付けながら先生が言った。

「いやー完敗ですね。すみません」

「誰に謝ってるのよ。さっき浅倉さんにも言ったけど、まだまだこれからだからね。焦らずゆっくり」

 例の魔法の言葉で心が穏やかになる。「ですね」と相槌を打って机の端に置かれた資料に目をやると、そのどれもに長野県と記されていた。あまり詳しくは見えないけど、彼女がそこに帰ろうとしていることだけは分かった。そんな俺の視線に気づいたかのように先生は話し出す。

「あなたの友達も頑張ってるわよ。最近なんだか前向きでね。これがしたいっていう明確なものはまだ見つかってないみたいだけど、地元に帰ってそこの人たちのために働きたいんだって」

 俺の目を真っ直ぐに見ながら話す先生は別の何かを伝えようとしているように感じる。

「そうなんですね。長野でしたっけ?いいですね、そういうの」

「うん、私もいいなって思う。ねぇ、どうして浅倉さんは地元のために働きたいと思ったんだろうね」

 先生はその資料に目を向けながら聞いてきた。そんなこと知るはずもない俺が「なんでですかね」と考えもせずに返事をすると、なぜか先生はくすっと笑った。その顔を不思議そうに見遣ると、やはり先生は瞳の奥で俺に何かを訴えているようだった。それが何なのか分からないけど、ひとまず耳を傾ける。

「大切な場所なんだって。今でもそこで待ってくれている家族のために、友達のために、それからそこを離れてしまった大切な人のために、浅倉さんは働きたいみたいよ。誰もがいつでも戻って来れるように、思い出の場所を守りたいんだって」

 先生の瞳が訴えようとしていることにも、琴音が俺の帰る場所を作ろうとしてくれていることにも、今は気づかないふりをする。そうでもしないと、また俺は間違った選択をしそうだった。

 その後先生とした面接練習は今までで一番うまくいかなかった。前に進む琴音を追いかけようとする自分に抗うことに必死で集中できなかった。先生はそんな俺を気遣ってくれたのか、「今日は疲れただろうし終わろうか」と言って早めに切り上げてくれた。


 鬱蒼とした気分を晴らそうと帰り道はいつもと違う道を通って帰ってみる。すっかり夏色に染まった景色とそのじめじめとした暑さが俺の気分を一層鬱々とさせ、なかなか吹かない風に苛立ちすら覚えた。

 気づかないうちに琴音は俺からどんどん遠のいていっているのかもしれない。だけどそれが彼女のした選択で、俺の願った未来だ。だからこれでいいんだと、そう言い聞かせながら、いつもの道へと戻りながら俺は家に帰った。