——ばあちゃんが泣いていた。

 ぎっくり腰になったばあちゃんの家に行ったあの日。琴音に好きだと伝えたあの日。星を見て帰ってきた俺がばあちゃんの部屋の前を通ると、小さな声で泣いているばあちゃんの声が聞こえた。気づかれないように襖を少しだけ開けると、写真を見ながら「ごめんね」と言っているばあちゃんがいた。その写真に映る琴音に気づいてしまったのだとすぐに分かった。

 いつだって俺は気づくのが遅い。母さんが倒れたときもそうだった。自分の欲望にだけ目を向けて大切な人のことを考えられない。俺はそんな愚かな人間だ。今も昔も変わってなんかいなかった。

 もう一度君と出会い、君に二度目の恋をした。俺は何も考えられなかった。どちらかを選ぶなんて、俺にはできない。
 ばあちゃんも、琴音も、俺にとってかけがえのない大切な人だから。

 そんな俺に覚悟をくれたのは、ばあちゃんからの電話だった。琴音にもお礼がしたいから今度また家に連れておいでと連絡をくれたあの日。ばあちゃんの言葉で俺は覚悟を決めたんだ。

 その電話は夜遅くにかかってきた。

「この間はありがとうね」

 いつも優しいばあちゃんの声がやけに掠れて聞こえたのは、夜の十一時を回っていたその時間のせいだったのかもしれない。

「全然。もう平気?」

「うん、平気だよ。お礼にご馳走作るから今度琴音ちゃんも連れていらっしゃい」

 そう言ったばあちゃんの声は少しだけ震えているようだった。それはきっと時間のせいなんかじゃなかったと思う。これから話すことにばあちゃんなりの想いが溢れていたからだったんだと思う。

「匠真は今、幸せかい?私はね、匠真が幸せなら幸せなんだ。きっとあなたのお父さんとお母さんも同じ。匠真が笑っていれば嬉しいし、泣いているなら悲しいの。私はあなたを高校生からしか知らない。だけどいつだって匠真は笑ってたよ。——でもね、無理して笑う必要なんてないんだよ。我慢することなんてないの。泣きたい時は泣けばいい。苦しいなら誰かに頼ればいい。いつだって、あなたが選んでいいの。自分に正直にいればいい。匠真の幸せは、匠真が選ぶんだよ」

 真剣な声の奥にあるばあちゃんの苦しそうな想いが電話越しに伝わってきた。自分で選んでいいと言ってくれたばあちゃん。そんなことを言わせてしまった俺は、どこでその選択を間違ったのだろう。

 俺が倒れる前、毎日泣いていたばあちゃんの声。目を覚ました時に病室で聞いたばあちゃんの声。そして今、電話越しに聞こえるばあちゃんの声。
 どれも優しい声だったけど、どれも悲しい声をしていた。


 ばあちゃん、そして琴音。俺が選んだら駄目なんだ。俺の選択はいつだって大切な人を傷つける。もうこれ以上、誰かが壊れていくのを見たくない。
 だから二人が、選んでよ。二人の選択は、きっと誰も傷つけない。その選択が俺に嘘をつくことだとしても、俺はそれを責めたりしない。きっとそれが皆を幸せにしてくれるって、信じてるから。



 そして、夏がくる前に琴音は俺から離れていった。俺にとって春は別れの季節だから、その別れはすごく自然なものに思えた。
 最後の日に君が名前を呼んでくれたとき、その名前が俺だけに向けられていることが嬉しかった。君の名前を呼ぶ俺の本当の気持ちを君が知らなくたって構わなかった。それでもあの瞬間、俺たちはきっと同じ気持ちでいたと、そう思えた。