それからのことは正直あまり覚えていない。毎日涙で頬を濡らして、自分を消してしまいたくなった。どうして俺はこんな人間なんだって、どうして大切な人をいつも傷つけてしまうんだって。誰も幸せにできない自分をひたすら憎んで、後悔ばかりする日々だった。そういう辛くて苦しい記憶だけが俺の脳裏に刻まれた。

 いつの間にか部屋から出ることすら億劫になってしまった俺にじいちゃんとばあちゃんの声だけが届いた。心配を募らせていくじいちゃんの声。ばあちゃんが泣いている声だって何度も聞いた。それでも俺は二人の前に現れることができなかった。もうこれ以上大切な人を傷つけたくなかったから。
 体力の限界はすぐにやって来て、意識はどんどん遠のいていった。でもその時救われた気がしたんだ。

 やっといなくなれる。これで誰も傷つかない。

 その安堵の気持ちが俺を夢の世界へと連れていってくれた。

 中学の制服を着た俺と琴音があの公園にいる夢。目が覚めるまでずっとそんな長い夢を見ていた。

 ブランコに乗った琴音が眩しそうに目を細めながらこちらをじっと見つめている。

「匠真はどうしていつも寂しい目をするの?」

 彼女はそう言って俺の頬に触れる。痛くも痒くもないその感覚に夢だと改めて感じる。

「そんな目してないよ。琴音だって、なんでそんなに心配そうな顔してるんだよ」

「心配だからだよ。寂しい目をする匠真が心配なの」

 そう言って涙を流す琴音が俺の瞳に映った。いつも恥ずかしそうに俯くくせに、今はしっかり俺を見据えているようだった。

「泣くなよ……俺は琴音に笑っててほしい」

「私を泣かすのも、笑わせるのも、いつだって匠真だよ。匠真だけだよ」

 泣いている彼女を見ても俺は不安にはならなかった。これが夢だと分かっていたから。夢の中でも彼女に会えたことが嬉しくて、正直それだけで十分だった。
 現実ではないこの世界で君に会えるのなら、ずっとここにいたいと思った。ここでなら君を傷つけずにいられる。
 ここでならきっと、この気持ちを君に伝えることができる。

「俺、今夢を見てるんだ」

「夢?」

「そう、俺は今夢の中にいる。だからさ、俺の本当の気持ち、聞いてくれる?」

 彼女はわかりやすく眉間に皺を寄せた。ふいっと顔を背けた彼女は、「いやだ」と一言だけ言った。

「琴音、こっち向いて」

 苦しい。どうしてこんなに苦しいのだろう。背けられた顔が遠くに行ってしまう気がして怖い。頼むから、ここにいて。俺の傍に——。

「ずるいよ。夢の中で伝えるなんて、匠真はずるい。私、待ってるよ。匠真が夢から醒めるまで、ずっと待ってる。だから、その時ちゃんと伝えに来て」


 夢の世界ってもっと自由なんだと思っていた。琴音は俺の前に小指を立てて最後に言った。

「約束、今度はちゃんと守ってね」



 その言葉が夢なのか現実なのか分からないくらいほど鮮明に頭に響くと、俺はその長い夢から覚めた。朦朧とする意識の中で病室に響く大切な二人の声が頭に残っていた琴音の声をかき消した。

「匠真、目を覚まして。お願い……」
 そう言って泣くばあちゃんの声。

「目が覚めたら何を食べたい?じいちゃん、なんでもご馳走してやるからさ。だからもう一度笑った顔を見せてくれ」
 必死に涙を堪えながら力強く訴えるじいちゃんの声。

 俺だけに向けられた二人の声で俺は現実に戻ってきた。
 もうこれ以上、大切な人を傷つけたくない。俺のせいでこの人たちまで不幸にしてはいけない。
 俺は俺じゃない誰かになる。全てに嘘をつくことを怖いとは思わなかった。この嘘が大切な人を守ってくれるなら、それでよかった。それだけでよかった。
 これできっと誰も傷つかない、この嘘が幸せを連れてくるはずだと、そう信じた。


 そうやって俺は飯村匠真になった。
 過去を全て捨てて新しい人生を歩き始めると、それは思ったよりも幸せだった。じいちゃんとばあちゃんを名前で呼ぶようになっても、心の中ではいつもじいちゃんとばあちゃんと呼び続けたし、俺を息子として受け入れてくれた新しい父さんと母さんのことも大好きだった。
 その人たちを幸せにできる人間になれれば、それでよかった。大切な人を守れる人間にずっとなりたかったんだ。俺は俺のいるべき場所で生きていくから、琴音はどこかで素敵な人に出会って幸せになっていてほしいと思っていた。

 一ノ瀬匠真じゃなくなった日に、俺は浅倉琴音への気持ちを捨てた。——捨てたはずだった。

 それなのにあの日、あの肌寒い冬の日に君に会ったとき、君に名前を呼ばれたとき、捨てたはずのその気持ちが冷たい風と共に俺の元へと戻ってきた。

 笑っていてほしいと思っていた。幸せになってほしいと願っていた。
 でも目の前に現れた君は、俺の望んだ姿ではなかった。