夏の訪れを感じるにはまだ早いけれど、春が遠のいていくのは十分に感じられた。道ゆく人が写真を撮りながら歩いていた並木道は赤と緑で彩られ、その花びらが道路に飾りをつけている。
 私に別れを連れてきたこの季節は、世の中にどれだけの数の出会いを連れてきたのだろう。そんなことを思いながら歩く道の先に見覚えのある後ろ姿を見つけたのは、先生のマンションからちょうど十分ほど歩いたところだった。

 おそらく同じ場所へ向かっているであろう彼に足早に近づいていく。軽く肩を叩いて名前を呼ぶと彼は少し驚いた様子で耳にはめているイヤホンを外した。

「うわぁ、びっくりした!」

「ふふっ、ごめんごめん。友梨ちゃんは?一緒じゃないの?」

「うん、ちょっと学校寄ってからになるから先行っててって。浅倉さんこそ、匠真と一緒じゃないの?」

 宮部君は少し不服そうに見えた。集合場所まで彼女と一緒に行きたかったのだろう。

「あー、うん。家離れてるからさ、現地集合でいいかなって」

 言ってから気づく。どこに行くにも匠真は私を迎えに来てくれていた。思い返すと寂しさが一気に押し寄せる。

「浅倉さんはさ、匠真の傍にいてやってよ」

 突然彼が言った。歩くスピードを緩めることなく、前を向く彼は私の顔を見ようとしない。

「——どうしたの、急に」

 私も彼の顔を見なかった。どうしてか見たらいけない気がした。

「あいつさぁ、最近俺に言うんだ。運命って信じる?って。馬鹿げてると思わない?——でも多分、本当はあいつ自身が信じたいんだよね。だけど自信がないんだと思う。きっと怖いんだよ、忘れてしまうのも、失くしてしまうのも。だからさ、浅倉さんはあいつの傍にいてやって」

「うん……そうだね」

 匠真の親友に小さな嘘をついた。この小さな嘘をきっとこれからも重ねていく。そしてその度に心の中でごめんねと言うのだと思う。

 宮部君は私の顔を見ていた。それに気づいて俯く私の肩に優しく触れて、彼はいつもの調子で話し出す。

「匠真の抱えるもの全部、取ってやれたらいいのにね!全部取っぱらってさ、そしたらあいつ幸せかな。過去に縛られずに、生きていけるかな」

 語尾がどんどん小さくなった彼の声は、ほんの少しだけ震えていた。視界に入ってくる横顔は、唇を噛んで空を見上げている。悲しみを堪える彼と私は、きっと同じ気持ちなのだと思う。大切な人を想う、ただそれだけの気持ち。

「宮部君、私ね……」

 一度大きく息を吸う。桜の匂いがほんのり漂い、それを大きく吐き出す。

「私じゃ駄目なんだ。飯村君は私と一緒にいるべきじゃない。——きっと、悲しむと思う。苦しむと思う。だからその時には、宮部君が大丈夫だよって言ってあげてくれる?」

 彼は立ち止まった。空を見上げたその瞳をぎゅっと閉じて、「わかった」と小さな声で答えた。泣かないと決めていたかのように涙をぐっと堪え、頬を緩ませた彼がこちらを向いてその口を開く。

「浅倉さんは、きっと匠真の運命の人だよね」

「——運命かぁ」

「実は俺、高校生の時見たことがあるんだ。匠真の昔の写真。たまたまね、文さん家で見てしまって。匠真の横で笑ってたあの女の子が、君なんだね」

 そう言った彼はとても嬉しそうだった。会いたかったと言われているようで私は少し恥ずかしくなり、彼の目をうまく見られない。そんな私の頭に彼は優しく触れた。

「匠真とまた出会ってくれて、ありがとう」

 顔を上げると同時に彼の手は降ろされた。微笑む彼の顔が視界に入っても、不思議ともう恥ずかしさは感じなかった。

「宮部君は何も聞かないの?飯村君の過去のこと」

 私が尋ねると、彼は「うーん」と言いながら再び足を進めた。それから「知りたくないって言ってたら嘘になるけど」と前置きをして、

「匠真と出会ったのは高一でさ、記憶のこと聞いたのは高二。最初は気になったよ、本当はどんな人間だったんだろうとか。でもさ、俺にとって匠真は匠真でしかなくてさ。いつだって本当だったよ。本気でぶつかってきてくれた。そこに嘘はなかったと思うから」

「そっか、そうなんだ。匠真は本当に素敵な友達に出会ったんだね」

 私が無意識に匠真と呼んでしまうと、彼はその瞬間だけ一瞬こちらを見たけれど、特に何も触れてはこなかった。

「今日は浅倉さんも全部忘れてさ、楽しもうよ。明日からのことは俺に任せて」

 そう言って笑う彼に私も笑顔で頷く。今日という日が過去になったとき、楽しかったと思えるように、愛しい思い出として記憶に刻まれるように、そう強く思った。

 すぐそこに見える集合場所には手を振る二人の姿があった。匠真の笑顔が視界に入る。その笑顔の奥に隠された深い悲しみを、今日だけは忘れてしまおう。