あれから二週間あまり経ったけれど、私はまだ文さんとの約束を果たせないままでいる。彼との、匠真との関係を絶つことができていない。
 あの日以降、就活を理由に私たちは一度も顔を合わせていなかった。だけど今日は以前宮部君が言っていたダブルデートに行こうという計画が立っている。気乗りしない私に時間は刻一刻と迫っていた。
 好きな人と出かけるというだけで高鳴る鼓動も、浮き足立つ気持ちも、今の私には感じられない。彼が匠真だと分かってから、どう対峙すべきか迷っている自分がいる。いつも通り、なんできる気がしなかった。

 朝が苦手だという友梨ちゃんのために集合時間は昼過ぎに設定されていた。それよりも三時間ほど早く家を出た私は、歩いて二十分弱のところにある大きなマンションへと足を運んだ。

 エントランスにあるインターホンに顔を映し挨拶をすると、家の主は突然の訪問にも関わらず快くオートロックを解除してくれた。エレベータに乗り彼女の部屋まで行く間にこれから話す内容を整理する。飯村君は私の幼馴染の匠真だったこと、彼の祖母と約束をしたこと、考え出すと涙が喉の奥をツンと刺激した。唾を飲み込んでそれを押し込むと、なんとなく背筋が伸びていく気がした。

 行き先のフロアまで出ると、彼女は部屋の前で私を待っていた。驚く私の全てを包み込むような笑顔で、「いらっしゃい」と迎えてくれる彼女は、先日会った時と同じスエットを着ている。
 落ち着いたモノトーンな部屋に入ると、既にテーブルにはコーヒーの入ったカップが二つとチョコレートが用意されていた。ソファーの前に先に座った彼女は私を隣に促すと、すぐさまチョコレートに手を伸ばし丁寧に口に運んだ。そんないつも通り(・・・・・)な彼女を見ていると、徐々に落ち着きを取り戻してくる。

「もうすぐ春が終わるね」

 彼女はチョコを口の中で滑らせながら言った。その視線の先に見える窓の外の景色が彼女にそう言わせたのかもしれない。

「こっちの桜はまだもう少し、残ってますね」

「こっち?」

 不思議そうに彼女がこちらを向く。大きな瞳が私を包むともうそこから逃れることはできなかった。

「飯村君のおばあさんの住む町は、もう桜が散ってました」

「へぇ、そうなんだ。東京?」

 あまり大きな反応を見せない彼女はもう二つ目のチョコレートの袋を開けている。私もその一つに手を伸ばしてみた。口に運ぶと意外と硬くて、口内を滑らせていた彼女の気持ちがよく分かる。

「東京です。同じ東京でも見える景色が全然違うんです。夜になると星がたくさん見えて、こんな場所があるんだなって、びっくりしました」

「そっかぁ。飯村君はその町で育ったの?」

「——はい。私の前からいなくなってから」

 私が答えると彼女の手が止まった。何も言わず目だけで訴えてくる彼女に順を追って説明する。
 言葉にすると、その全てが現実として私に降りかかってきて、飲み込んだはずの涙が再び私の中に湧き出てきた。それを何度も飲み込んで、ぐっと唇を噛む。それでも背筋が伸びることはなく、体がどんどん小さくなっていく気がした。

「先生、私、忘れられるでしょうか?飯村君を、匠真を、ずっと想ってきたのに、忘れるなんて……そんな簡単にできますかね」

 彼女は最初黙っていたけれど、暫くして体をこちらへ向けた。その手はテーブルに伸ばされることなく、私の両手に優しく添えられた。

「——忘れなくていいんじゃない?」

 その言葉を聞いて頬に一筋の涙が伝った。私は今日、彼女にそう言ってもらうためにここに来たのかもしれない。この人ならきっとそう言ってくれると、信じていたのかもしれない。

「私、私は……」

 涙を堪えると声が震え、うまく発生できない。唇を噛んでいないと溢れてしまう。言いたいことはたくさんあるのに、それ以上何も言葉にできなかった。

「もしいつか彼が全てを思い出したら、浅倉さんはどうする?」

 涙で滲む視界はぼやけていて何も認識できなかった。彼女が今どんな表情で私にそう尋ねているかも分からない。ただ受け取ったその声は彼女の優しさが象徴されたようなものに感じた。

「私は……」

 どんなに想いが溢れても言葉はうまく出てこない。伝えたい想いを涙と一緒に固く飲み込むと、しょっぱい味が鼻先を刺激した。

「その時、飯村君の傍にいたいと思う?」

 言葉の出ない私が答えられるように彼女は質問を変えた。私がゆっくりと頷くと彼女はそっと私の涙を拭ってくれた。鮮明になった視界に優しい笑顔が映し出されると、私の頬も少しだけ緩む。

「無理に忘れる必要なんてない。誰かを想う気持ちはその距離なんてきっと問わないよ。隣でずっと想い続けることだけが全てじゃないって私は思う。離れた場所から見守り続けることも、その人を想う気持ちに変わりない。浅倉さんなりの想い方でいいんだよ。——浅倉さん、あなたが選ぶの。忘れてしまうのか、それとも遠くからでも想い続けるのか。あなたが選んで、彼を守ってあげればいい」

 添えられた両手に伝わる温もりを感じ取ると、その手を握り返さずにはいられなかった。
 彼女の言葉で救われていく私の心が涙となって頬を伝っていく。姿の見えなかった時間も匠真を想い続けた私が今やっと許された気がした。過去から抜け出せないと嘆いていた時間を、それでいいんだよと受け入れてもらった気がした。

「先生ありがとう」

 こんなことしか言えない私をきっとこの人は許してくれる。そう思う私の心が無理して多くを伝えようとしなかった。

「ふふっ。浅倉さんらしいね。そうやってお礼が言えるあなたを私は誇りに思う」

 彼女はそう言って笑いながら三つ目のチョコレートを口に運ぶ。少し溶けていたそれを今度は口内を滑らすことなくガリガリと噛んで飲み込んでいた。


 玄関で見送ってくれる彼女にしっかりと頭を下げると、彼女はそんな私の頭を猫でも撫でるかのようにくしゃくしゃと撫でた。

「ちょ、先生!これからデートなんですよ!」

 私がそう言って勢いよく振り払うと、彼女は満面の笑みを作った。手櫛で髪を整えながら彼女につられて私も笑う。

「今日は本当にありがとうございました。では、行ってきます」

 そう言って背中を向けた私を彼女は大きな声で呼び止めた。振り返るとドアから半分ほど体を出した彼女が手を振っている。

「ははっ、行ってきます」

 そう言って彼女と同じように私も手を振った。

「最後に一つだけ、先生から贈る言葉があります」

「なんですか?改まって」

 ドアを閉めてすっかりその身を廊下に出した彼女に聞くと、彼女はまた両手で私の頭を軽く掴んだ。反射的に阻止しようとその手を握ると、彼女がその口を開く。「頑張れ」と。少しだけ思い出深いその言葉に両手の力が緩んでいく。ゆっくりと彼女の顔を見ると、目を細めた笑顔が私を見つめていた。

「ありきたりな言葉だけど、言わせて。——頑張れ、浅倉さん」

「——はい、頑張ります!」

 目を見てはっきり答えると、彼女は大きく頷いて頭から手を離した。私たちはもう一度別れの挨拶をして、手を振り合った。
 エレベーターに乗りながら自分自身と対話する。頑張れと、言い聞かせる。私なら大丈夫だと、そう言い聞かせた。

 待ち合わせの時間まであと一時間。もうすぐなくなる春の木漏れ日を感じながらゆっくり歩けば、きっとちょうどいいだろう。