文さんはそれから私に全てを話してくれた。初めて私がここに来たとき、私が写真に写っている子だとは気づかなかったこと、あの日泣いていたのは私がその子だと気づいてしまったからだと、彼女は涙を堪えながら伝えてくれた。
 私はただ彼女の言葉に耳を傾け、何も言わず、相槌すらも入れず、全神経を彼女へ向けていた。そうしていないと、彼女より先に涙が出てきそうだった。

「『思い出を作りすぎたら離れられなくなる』卒業式に出なかった理由を尋ねたらあの子そう言ってたわ。だから卒業式の前日には母親の地元に行ってたの。だけどその後すぐに母親が疲労で倒れてしまった。既にご両親が他界してた彼女に頼れる身内はいなかった。それでも母親として、あの子を守っていかなくちゃいけない。だから無理を承知で私たち夫婦に頭を下げにきたわ。私たちに頭を下げる必要なんてないのにね。バカ息子のせいで苦労かけて、助けてあげない理由なんてなかったわ」

 彼女はそこまで言うと義信さんの遺影を見て、「ねぇおじいさん」と笑いかけた。
 この家に四人で暮らし始めると彼の母親の体調も少しずつ良くなり、幸い勤め先もすぐに見つかったという。

「彼女はね、ずっと後悔してたの。匠真にたくさん辛い思いをさせたって。寂しい思いをさせて、たくさん我慢させたって。だからもうこれ以上あの子を傷つけたくない、そう言ってこのアルバムを私に見せてくれたわ。匠真の誕生日に渡すって言って楽しみにしてた。そのときに、彼女からあなたの話を聞いたの」

 そう言って私の顔を見る彼女は、初めて会ったときのような優しい笑顔をしていた。

「匠真があなたを想う気持ちに、彼女は気づいてたの。だからあの日、長野に行くと言ったあの子を彼女は止めなかったわ」

 彼女の言葉で心臓の音が体内に大きく響いた。知らなかった真実が吸収される度に私の心が悲鳴を上げる。

「母親が息子の選択を尊重する。当たり前のことのなのかもしれない。だけどその選択が結果的に二人を壊してしまったの。あなたに会いに行った日に、匠真は事故に遭った。そして、その日のうちに帰ることを約束して出て行ったあの子を、母親は追いかけた。その日がちょうど誕生日だったから、どうしてもこのアルバムを渡したかったのね。きっと、生まれてきてありがとうって、伝えたかっただけだったのよ」

 彼女は堪えきれなくなった涙をティッシュで拭った。呼吸を整えてからもう一度話し出したとき、彼女の体が小刻みに動いていることに気づいた。きっと彼女は今、彼女の中にある深い悲しみと必死に闘っている。

「事故はトラックの信号無視だった。彼女は匠真を守るようにして亡くなったの。これから、これからまた頑張ろうって、前を向いていたところだったのに。でもきっと彼女は後悔なんてしていないと思う。最愛の息子を守ることができたから。自分の選択は正しかったって、きっと今も天国でそう思っているはずよ。でもその選択が匠真を苦しめることになった。自分の誕生日に母親を亡くしたあの子の心の傷はあの子を変えてしまったの。毎日毎日、自分のした選択を後悔して、涙を流して……。いつの間にか自室にこもって出てこなくなった。食事も、会話も、睡眠も、全てをやめてしまったあの子は倒れてしまったの。病院で点滴をし続ける生活が一ヶ月も続いた。——そして目を覚ましたときには、自分が誰なのかも忘れていた。おそらくトラウマによるものだろうって」

「そんな、そんなことって……」

 全てを受け入れると決めていた覚悟が、真実によって押しつぶされていく。痛い、心臓が、心が、身体中が、その全てに痛みを感じた。

「これから先、何が合っても必ず匠真を守る。天国にいる彼の母親のためにも、私たちがあの子を守らなくちゃいけない。だから……匠真に、新しい人生を歩ませたの。全部忘れて、あの子には幸せになってほしい。そう願った。だから主人の教え子だった飯村君たちに匠真を預けて、彼らの息子として人生を再スタートさせた。これが私たち夫婦が選んだ大切な孫を守るための選択なの。——このままが、いいの。あの子のためにも、あの子の母親のためにも、このままがいい」

 彼女はそう言って私の横へと体を動かした。正座をする彼女の方に私が体を向けると、彼女は祈るような瞳でこちらを見ていた。

「もう誰も、匠真を傷つけちゃいけない。あの子にとって過去を思い出すことは、悲しみと苦しみを背負って生きていくことなの。あの頃みたいにずっと苦しみながら生きてくことなの。——全てを思い出したら、あの子はきっと壊れてしまう。だからお願い」

 最後の言葉を言う前に彼女は膝の前にその両手をついた。私の視界から彼女の顔が消えると、畳に向かって彼女は最後の言葉を口にする。するとそれはすぐに畳から跳ね返り私の耳へと届いた。

「どうかあの子のことを、忘れてください」

 私への選択肢はいくつあるのだろう。一つ、二つ、三つ……。いや、数える必要なんてない。

「文さん、頭を上げてください」

 顔を上げた彼女の充血した目が私の首を頷かせる。これでいい、これがいい。きっとこの選択が、匠真を幸せにするのだから。
 彼を守るために彼女たちがしてきた選択は、家族という関係を失くしてしまった。彼から「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれなくても、「文さん、義信さん」と呼ばれることになっても、それでもその選択をした彼女たちにきっと後悔はない。重ねた嘘は彼に幸せを連れてきたのだから。