次の日は大学に集合となった。待ち合わせのラウンジに着くと、そこにまだ宮部君の姿はなく、こちらに手を振るその人に私も小さく振り返す。

「飯村君、おはよう。宮部君はまだ?」

 昨日がスーツだったせいか私服の彼が新鮮で思わず目を背けてしまう。まだ来ていない宮部君を探す風に辺りを見渡した。

「おはよう。なんかゼミの先生のところに行ってから来るって。多分もうすぐ来るよ」

 五、六人は座れそうなテーブル席で彼は私を自分の隣へと誘導した。宮部君には向かい側に座ってもらおうと言って私の荷物を空いている椅子に置いてくれた。
 肩と肩が触れそうな距離は私たちの関係に相反しているようで、私の体は一気に緊張し始める。ほんの少し彼が動いただけで、その腕はそっと私の腕を刺激し、その度に高鳴る心臓の音を聞いているだけで倒れてしまいそうになる。
 昨夜の電話で感じたあのちょうどいい感覚を思い出す。だけど、電話で話すのと実際に会って話すのは大きく違う。私たちの距離感や関係性は、きっと電話越しくらいがちょうどいいのだと、そんなことを思った。

 スマホを見ていた彼が突然思い出したかのように話してきたのは、文さんのことだった。もうすっかり腰もよくなり今は今まで通りの生活を送っているという。「それはよかった」と反応する私に彼はスマホのカレンダーを見せて言う。

「それでね、文さんが浅倉さんにもお礼がしたいからまた二人でおいでって。いつがいいかな?」

 カレンダーにポツポツと企業の名前が刻まれている。説明会もあれば一次面接もあった。頭の中に自分のカレンダーを思い浮かべる。真っ白なそこにはいつでも予定を入れることができた。それでも彼女との予定を入れようとすると、真っ白だったはずのカレンダーは突然色を変える。——会いたくない。これが答えだった。

「そうなんだ。でもごめん、ちょっと今就活忙しくて難しいかも」

 上手に嘘をつけたとは思わない。彼の腑に落ちない様子を見れば、そんなことはすぐに分かった。
 気まずい空気はすぐに広がってしまうもので、静かというよりは沈黙の時間が私たちの間に流れ始める。その沈黙を破ってくれたのは待ち合わせ時間より三十分遅れた宮部君だった。

「ごめん!遅くなった」

 ここまで走ってきたという彼は息が荒く、挨拶を済ませるとすぐに自動販売機まで飲み物を買いに行った。私たちの分まで用意してくれた彼が当たり前のように向かい側に腰を下ろす。

「で、二人揃って話ってなに?」

 宮部君はあからさまに怪訝そうな顔をした。その表情からすると、あまりいい話ではないと予想しているのだろう。
 代表して飯村君が昨日見た一連の話をする。その上で私たちは疑っている訳ではない旨をしっかり伝えると、宮部君は恥ずかしそうに下を向いた。

「えー、見てたなら声かけろよぉ」

 彼はそう言って顔を上げ飯村君の方を見た。その後私の方を見ると、「友梨もなんか言ってた?」と心配そうに聞いてきたので、彼女が完全に()だと思っていることを正直に伝える。

「あーそっかぁ。だからあいつ電話ですごい聞いてきたんだ」

「なんで嘘ついたの?」

 私がそう尋ねると彼は照れ隠しのように自分の髪の毛をくしゃくしゃっと乱雑にかき乱し「恥ずかしかったから」と一言だけ漏らすと、買ってきた飲み物を口にしてから改めて説明してくれた。

「もうすぐ友梨の誕生日なんだけど、なんかしょうもないことで喧嘩になってさ」

「それって第二ボタンのこと?」

 私の反応に宮部君は少し驚いた様子で首を縦に振った。

「俺別に第二ボタンを誰かにあげた訳じゃなくて、制服自体を知り合いにあげてたんだ。それが昨日会ってた人の弟。それにあの人、俺の兄貴の彼女なんだ」

 飯村君と顔を見合わせる。やっぱりという自信と、それでもどこかほっとするような安堵の気持ちが彼の表情からも感じられた。

「じゃあ昨日は?」

「あぁ、制服返してもらってきた。弟ももうこの春から高校生だし必要ないだろうから。あ、でも友梨には言うなよ。別に今さら渡すつもりなんてないし」

 宮部君はそう言いながらまた照れ隠しのように髪を乱した。

「でも宮部もなんか渡してたんでしょ?」

 飯村君が確認するように私の顔を覗き込んだ。私もそれを思い出し、大きく首を上下させて宮部君の方を見る。

「あれは兄貴の荷物。最近あの二人一緒に住み始めてさ、それで兄貴に持ってきてくれって頼まれてたものを渡しただけ」

「なんだよ、紛らわしいことするなよ」

 飯村君はそう言って宮部君の頭を叩く真似をした。
 彼女と喧嘩になってしまった第二ボタンのついた制服をわざわざ返してもらったという事実は、彼の中にある男としてのプライドを保つために隠さなければならなかったのだろうか。だとしたら男というのもなかなか大変だなと思う。

「で、二人は付き合ってんの?」

 すっかり気が抜けて椅子にもたれかかっていた私たちに宮部君はまるで軽口を叩くように言う。

「付き合ってるよ」

「……付き合ってるの?!」

「え?付き合ってないの?!」

 私たちのやり取りに宮部君は「どっちだよ!」とツッコミを入れて大笑いした。側から見れば盛り上がっているように見えるけれど、私にそんな余裕はなかった。付き合っているなんて寝耳に水だ。でもどこかでそうなりたいと願っていた私がいたのも事実だった。

 急に名前のついた私たちの関係はその距離をぐっと縮めた気がした。肩の触れる面積は増え、膝までも触れてしまいそうだ。
 幸せを感じる反面、押し寄せてくる不安の正体に今は気づかないフリをする。そうすることで、触れた部分から伝わる彼の熱を逃すことなく全て感じられる気がした。