部屋へ戻ろうとする私を背後から囁くように呼び止めたのは飯村君だった。振り返ると大きめのタオルケットを持った彼が立っている。

「びっくりした。何してるの?」

「へへへ、ごめんね驚かせて。ねぇ、ちょっと抜け出そうよ」

 彼の優しい笑顔はいつも私の心を一瞬で晴らしてくれる。同時に私の選択が彼のこの笑顔を奪ってしまうことを想像して怖くもなった。そんな思いをかき消すように首を縦に動かすと彼は私の手を取った。

「暗いからさ」

「ありがとう」

 そうやって絡んだ指の間から私たちは互いの熱を送り合う。その熱に込められた想いを感じ取るように時折力強く握られる彼の手は私の手をすっぽりと包み込み、決して離そうとはしなかった。

 十分ほど歩いた末にたどり着いたのは、どこにでもありそうな空き地だった。最近手入れがされたばかりなのか綺麗に草が刈られているそこには、誰のものか分からない折りたたみの椅子が三つ置いてある。彼はそこから二つを組み立て、私をそこへ促した。自然と離された左手にはまだ彼の熱が残っていて、それが逃げていかないよう私はぎゅっと手を握った。

「ここさ、星がすっごい綺麗なんだ。文さんと義信さんと何度もここに星見に来てた。この毛布かけたら快適でさ、俺そのまま寝ちゃってよく叩き起こされてた」

 彼はそう言って笑いながらお互いの足が隠れるように毛布を広げる。
 夜空を見上げる彼に倣って上を向くと、そこに煌めく満天の星に私は目を疑った。東京にもこんなにも綺麗に星が見える場所があるんだと胸が熱くなる。
 夜空に夢中になっていた私の左手が再び彼の熱を感じとる。手と手が重なり合うと親指から順にお互いの指を受け入れながら折れ曲がっていく。小指がお互いの手の甲に微かに触れると彼は口を開いた。

「俺、浅倉さんといると自分に正直でいられる。いつも人の顔色気にして、不安になるとすぐ下向いて、どこか自信なさそうで——だけどいつも人のこと想ってて、『ありがとう』とか『ごめんね』を当たり前に言える君が——」

 彼の体がこちらへ向く。伸びてきた左手は、所在なさげに膝の上に置かれた私の右手を握った。満天の星空は彼だけを照らしているようで、その顔は私の瞳に鮮明に映し出される。

「好きだよ。俺も浅倉さんが好き」

 握られた両手に汗が滲む。それは指の間を伝い彼の手を湿らせた。
 嬉しさの裏にある不安は私の顔を俯かせる。文さんに言われた言葉が脳内を巡り、心の動きを頑なに止めていた。

「今、何考えてる?」

 囁かれた言葉に声を絞り出す。小さな声は私の喉を強く刺激しながら乾いた空気へ解放されていく。

「私なんかで、本当にいいのかな」

 彼の両手は私の手から一旦離れると、今度はゆっくりと伸ばされたその二つの手が私の頬にその体温を伝えた。

 俯く私の顔をそっと持ち上げる。星たちが照らす彼の瞳に今度は私が映り込んだ。

「浅倉さんがいい。そのままの浅倉さんがいい。そのままでいいんだよ。——大丈夫、俺が保証する」

 隠れている思い出を探すように頭の中にあるアルバムがパラパラと捲られていく。そして記憶の一ページが開かれたとき、私の脳内でそれは再生された。

『琴音なら大丈夫。俺が保証する』

 俯く私の顔を上げていつの日か匠真が言った。どうしてそれを彼が言ってしまうのだろう。彼が、飯村匠真という人間が誰なのか、分からなくなる。

「匠真……」

 思わず出た名前に、彼は「なに?」と優しく答える。
 私が今呼んだのは誰だろう。自分でも分からない。一ノ瀬匠真なのか飯村匠真なのか、その答えはきっとまだ見つからない。いつか、いつの日か見つけられるのかどうかも分からない。

「俺、浅倉さんのそばにいる。だから浅倉さんも俺のそばにいてくれる?」

 その言葉に匠真との夢を思い出す。忘れないでと言った彼の声が頭に響く。二人を重ねてしまう自分をどうしても止められなかった。

「そばにいたいよ——」

 そう言った声が震えていることに彼が気づいていたかは分からない。ただ彼は優しく、そんな私を抱きしめてくれた。そのせいで毛布は彼の方だけ剥がされ地面と重なった。そんなことも気にならないくらい彼の腕の中は暖かくて、私のこのどうしようもない感情を優しく包み込んでくれた。


 二人の間に生まれた同じ感情が握った手から伝い合う。私たちはそれから暫くの間、何も話すことなく星を眺めた。どうしようもなかった私の感情はいつの間にか浄化され、今はただ夜空へ想いを馳せていた。彼が好きだと、星たちに誓うと気持ちはどんどん安らかになっていく。

「繋がってる気がするんだ」

「繋がってる?」

「ここで星を見てると、いつもそう思う」

 私の顔を見ることなく彼は言う。数えきれない数の星をどうにか数えるように瞳を左右に揺らしている彼の横顔はやけに綺麗だった。

「俺が忘れてしまった人たちもこうやって同じ星見てるんだって思ったら、そしたらその人たちと今でも繋がってるって思える。それだけで救われるんだ」

 綺麗な横顔がやがて悲しそうな笑顔へと変わる。この人はこうやって何度もここで救われて、そしてその度に何度も悲しい笑顔を作ったのだろう。どうして誰もそんな彼を救ってあげないのか。どうして——。

「うん、繋がってる。きっと皆、今でも飯村君のことを想ってるよ」

 彼は私の顔を見ると先ほどよりも強く手を握ってきた。そんな彼に応えるように私もその手を握り返すと、彼の悲しみが少しだけ伝ってきた気がした。