「今なら何でも話せそうな気がします」

 そんな言葉が出たのは、この場の雰囲気と、私が一生かけても敵うことがないであろう彼女の存在のせいだと思う。私の横で「どーんとこい」と両手を広げる彼女のことが今までで一番頼もしく感じられる。

「私、飯村君と同じ匠真っていう名前の幼馴染がいるんです。彼とは家が隣同士で、中学卒業までずっと一緒にいました。学校終わりにはいつも近くにあった小さな公園に寄って帰ってたんですけど、そこで二人で過ごす時間が何よりも幸せでした。——好きだったんです。でも結局、その気持ちを伝えることはできませんでした。彼は両親の離婚が決まって引っ越すことになってたから。でも私、離れてしまう前に気持ちを伝えたくて、中学の卒業式の日にいつもの公園で会う約束をしました。だけど、どれだけ待っても彼は来なかった。約束を守れなかった理由も、今どこにいるのかも、誰といるのかも、分からないままです。——飯村君は、そんな彼に似てるんです。初めて会ったとき、私本当に匠真なんじゃないかって勘違いしちゃって。それが飯村君との出会いでした」

 相変わらず咀嚼音が響く部屋で彼女の方を見ると、どういう訳か彼女は眉間に皺を寄せて何かを考え込んでいるようだった。私の呼びかけにも「うーん」というだけでそれ以上何も話してはくれない。
 それでも彼女はお菓子を食べるのをやめなかった。「うーん」と唸りながらクッキーを三袋食べると、今度は急に「思い出した!」と大きな声を出して四袋目のクッキーを無造作にテーブルの上に置いた。

「そういえばあの日、浅倉さんと飯村君がキャリアセンターで鉢合わせした日あったでしょう?なんかお互い反応してたから私てっきり知り合いなのかと勘違いしちゃってたんだけど、浅倉さん突然走って帰っちゃったじゃない?ちょうど説明会の申し込みした後だったからそのまま机の上にあなたの申込書が置いてあったの。そしたら飯村君、その紙を見つめてあなたの名前を何度も小さな声で呟いて何か考え込んでる感じだった。ほら、あんまり取り乱したりしない子だから、その姿がすごい新鮮に映ってね、どうしたのかなってちょっと私も心配したのよね」

 彼女の話を聞いて、いつだったか彼の様子がおかしかったことを思い出した。そうだ、第二ボタンの話をしたときだ。あのときは、胸のあたりがざわつくと言っていたけれど、それも何か彼の空白の時間と関係しているのだろうか。

「たしか前に、たまにそういうことがあるって飯村君言ってました」

「そうなんだ。じゃあ彼の中の忘れられた記憶に無意識に反応してるのかもしれないわね。他にもそういう不思議なことはなかった?」

 不思議なこと。そう言われて思い浮かんだのは()だった。そんな非科学的なことを今言うべきかは分からない。でも、私に可能性を残してくれた彼女ならきっと受け入れてくれる気がした。

「どーんとこいって、私言ったよね?」

 その声は私の心を見透かすようなタイミングで届いた。彼女は天井に向けて両手を突き上げて、「どーんとこいっ」ともう一度口にした。

「何でもこいってこと、ね?」

 両手を下ろして私の顔を見つる彼女は学校で見るような大らかな優しい笑顔をしていた。私は小さく頷いてから向けられた視線に応える。その重なった視線が私の背中を押すように言葉は自然と喉を通って出た。

「この間飯村君と公園に行ったんです。その時、彼は公園に行ったことはあまりないんだって言ってました。だけどどうしてか公園にいる夢をよく見るんだって。それがどんな公園で、誰といたとか、そういうことは聞かなかったけど、どうしてもそれが気になるんです。私も、あの公園の夢はよく見るから」

 彼女は窓の外を眺めていた。同じように視線を移すと、青い空に一筋の飛行機雲が見える。

「明日は雨降るかもね」

 彼女は気まぐれにそう呟いて、テーブルに置いてあるクッキーを口に運ぶ。

「浅倉さんは、真っ直ぐだね。あの飛行機雲みたいに。目的地まで真っ直ぐ、ね」

 彼女はそう言って立ち上がり、台所へと向かった。まさかまたお菓子を持ってくるのではと焦ったけど、今回は布巾を持って戻ってきた。テーブルの上を軽く拭きながら、「考えたんだけどさ」と今までよりも明るい口調で話し出す。

「飯村君は記憶喪失で浅倉さんのことを忘れてしまってるだけで、あなたの好きだった匠真君なんじゃないかな?」

 彼女は隅々まで吹き終えるとテーブルの端に布巾を置き、私の隣に腰を下ろした。私は彼女に気づかれないようにそっと体を彼女の方へ傾けて、肩を落とすのが伝わるように言った。

「それは絶対にないです」

 私の反応に驚いた様子の彼女は大きな目を二回パチパチと動かした。その様子が子ども用のおもちゃの人形のようで面白くて思わず笑いそうになる。

「彼をよく知る人が教えてくれました。記憶を失くしたのは中学生のときに遭った交通事故が原因だって。その時彼は頭を強く打って三日間意識が戻らなかったそうです。それに本人からも東京生まれの東京育ちだって聞いてましたし、もちろん苗字だって違いますしね」

 その事実を改めて口にすると鼻と喉を繋ぐ奥の方がきゅっと締まった。感じたことのあるその感覚に全神経を集中させると、すぐに気がつく。私は今、悲しいのだと。辛いのだと。
 彼が匠真ではないという事実が雪崩のように私の心に襲いかかり、耐えきれなくなった心が脳に悲しみを伝達した。それは人間の中にある当たり前のサイクルであり、これからも幾度となく続いていくことだろう。それでも今が一番悲しいと、辛いと、その度に思うのだ。

 気づけば私は横にいる彼女にピタリとくっついていた。悲しみが彼女にまで伝染してはいけないと思い私がそっと体を離すと、彼女は両手で私の手を優しく握った。その暖かさが指先からじんわりと体全体へと浸透していく。

「浅倉さん。あなたはどうしたい?飯村君があなたの好きだった匠真君じゃなくても、それでも彼のことを知りたい?」

「私は……私は……」

 思えば、自分のことなのによく分からないことが多かった私だ。あなたはどうしたいという質問は、私にとって一番難しい質問だった。自分のことなんて、まだ何一つ分かっていない。それでも私の心が動くことは分かる。それでいい、心が動くままでいい。文さんの言葉を脳内で何度も再生して、私は感じるままを彼女へ向けて放つ。

「知りたいです。もっと、彼のことが知りたい。たとえ彼が匠真じゃないとしても」

 その瞬間、私の体を何かが包み込んだ。温もりに溢れたそこはとても心地が良かった。彼女は私を優しく抱きしめ、「偉い偉い」と子どもを褒めるような言い方で何度も言ってくれた。

「やっぱり真っ直ぐだ。そうやって誰かを想って必死になれるのって素敵なことだよ。これもきっと浅倉さんの魅力の一つだね」

 彼女はそう言うと、力強く私を包んでくれた。私は体の全てを彼女に預けて、そのままゆっくりと目を閉じた。