そこはシンプルで落ち着いた雰囲気のある部屋だった。モノトーンな家具の中にアクセントのように置かれた観葉植物が私の心を穏やかにしてくれる。台所から聞こえてくる彼女の鼻歌もまた部屋の雰囲気とよく合っていた。

 彼女が戻ってくるまで私だけソファーに座っておくのも気が引けて、結局ソファーとテーブルの間に落ち着いた。五分ほどして、コーヒーとお菓子を持って戻ってきた彼女は私の姿を見るなりふふっと笑う。

「浅倉さんらしいね。じゃあ私もここに座ろうかな」

 そう言って私と同じようにカーペットの上に腰を下ろす。「あちち」と言いながらカップに口をつける彼女は、普段大学で見ているようなシャキッとした人ではなく、どちらかというと隙の多い少しおっちょこちょいな人に見えた。

「それで?学生さん、何に悩んでるの?」

 熱すぎて飲めないと思ったのか彼女はカップをテーブルに置き、持ってきたお菓子に手を伸ばした。

「あー、実は就活に行き詰まっておりまして」

 とりあえず彼女に相談できる内容はこれだと思い、誤魔化すことなく素直に伝える。そんな私の発言を聞いた彼女は、お菓子を握りしめたまま大きな声で笑い出した。

「え、どうしたんですか?」

 彼女は苦しそうに咽せながらなんとか笑いを止めると、一旦落ち着くようにして改めてお菓子の袋を破った。一口大のクッキーを頬張りながら話し出そうとしたので、「食べてからでいいですよ」と私もコーヒーを飲む。

「就活に行き詰まったの?」

「はい」

「もう?」

「もう?はい」

 するとまた彼女は大袈裟に笑った。笑いながら「早いよ」と私の肩を優しく叩く。

「ねぇ浅倉さん、まだ始まったばっかりだから!そんなことで行き詰まったって言ってたら私なんて人生行き詰まってばっかりだよ。何度も言うけど、焦らずゆっくりだってば」

 焦らずゆっくり。出会った時から彼女がよく口にする言葉だった。魔法のようなその言葉を私も復唱する。

「焦らずゆっくり」

 口に出すと焦る気持ちがその言葉と共に空気中に吐き出されていったような気がした。

「そう。焦らずゆっくり。だからね、まずは就活のことよりも、あなたの頭をいっぱいにしてる別の問題から片付けたらいいんじゃない?」

「別の問題?」

 私は首を傾げた。別の問題が何か分からなかった訳ではない。ただ、彼女にそんな話を今まで一度もしたことがなかったから戸惑った。

「あの、先生——」

「本当に分かりやすい子。浅倉さんってすぐ顔に出るよね」

 私の言葉を遮った彼女から右頬を人差し指で二回つつかれた。
 やっぱりだ。この人には敵わない。多分一生かかっても敵わないと思う。

「そっちが片付いたら、また頑張ればいいよ。その時は私が全力でサポートするから」

 そう言いながら飲みやすい温度に下がったコーヒーを彼女はを満足そうに口にした。

「先生」

 私の呼びかけに彼女は顔をこちらへ向ける。

「コーヒー飲みながらでいいです。お菓子食べながらでいいです。今からする話は、そうやってぼんやり聞いてくれませんか?」

 そんなお願いをしたのは私が臆病だから。真剣に聞いてもらうことが怖かったから。もし全てを否定されたらどうしていいか分からなかったから。少しの希望と可能性を残しておきたいという気持ちの表れだった。
 彼女は最初不思議そうにしていたが、すぐにまたお菓子を手に取り、「了解」と言って袋を開けた。

「私、ある人のことがどうしても知りたいんです。その人がどんな人だったのか、どんな風に過ごしてきたのか」

 話し始めると彼女はもう私の方を向こうとはしなかった。コーヒーを飲んだり、お菓子を食べたり、窓の外を眺めてみたり、本当は聞いていないのではないかと疑うくらい彼女は私に集中しなかった。それでいい、そのままでいい。そう思いながら話を続ける。

「その人は小さい頃の記憶がないみたいなんです。今まで無理に思い出そうとしたことはないって言ってたけど、本当は思い出したいんじゃないかなって。その人の中にある大切な何かを、本当はずっと探してる。だから私、その人の力になりたいんです。でも——」

「でも?」

 彼女はそう言ってこちらを見た。目が合うと、やってしまったという表情を作り、誤魔化すようにコーヒーを飲み始めた。私がそんな彼女の様子をじっと見ていると、もう一度こちらをちらっと見て彼女はカップをテーブルに置いた。

「でも?」

 改めて聞いてくると今度は私の方は見ずに、何袋目か分からないお菓子に彼女は手を伸ばす。

「でも、聞かないでって言われました。その人のお母さんに」

 クッキーを咀嚼する音が部屋に響く。咀嚼音なのにとても綺麗で品のある音に聞こえる。食べ終えた彼女は溜め息を漏らし、それから大きく息を吸い込むと「なんでだろうね」とありきたりなことを呟いた。

「さぁ、なんでなんでしょう」

 私の反応に、彼女はまたお菓子の袋を手にして「とりあえず、恋だね」と訳の分からないことを言い出した。

「はい?」

「浅倉さんはその子のことが好きなんでしょ?だから知りたいし、悩んでるんでしょ?違う?」

 一切こちらを向こうとしない彼女はそう言い放った。「あの、えっと」と私が吃っていると、

「本人にちゃんと聞いたの?」

 と彼女はさらに畳みかけてくる。

「何をですか?」

「本当に思い出さなくていいの?って」

 どんどん口の中にお菓子を放り込む彼女の姿は、先生というより親戚のおばちゃんのようだと思った。私は小さく首を横に振り、彼女の方を見る。

「じゃあ聞いてみないとね。飯村君(・・・)だって本当は聞いてくれるの待ってるかもよ?」

「そう、ですかね。だけど飯村君は——」

 あまりにも自然な会話に何の違和感も感じなかった私は、流れのままその名前を出してしまった。目を丸くして見つめる私に気づいた彼女も食べる手を止めた。

「あ、ごめん。名前出しちゃった」

 そう言って手で口を押さえながら彼女は大きく笑った。やっぱりこの人には絶対に敵わない。そう思ったら私も自然と口角が上がっていく。彼女の豪快な笑い声と私の控えめな笑い声が響いて、部屋の中の緑の葉が少しだけ揺れていた。