「匠真と文さんから琴音ちゃんの話はよく聞くのよ。今日は本当にごめんなさいね」

 そう言って私に軽く頭を下げる彼の母親を見ていると、彼は母親似ではないような気がした。そんな彼女に続けて彼の父も、「本当にすみません」と息子の腕を自分の首に回しながら謝ってきた。そんな二人の様子を見ていて、どちらかというと父親似だろうかとも思ったけれど、正直どちらにも似ているとは思わなかった。

 若い男性の店員にも手伝ってもらい、なんとか彼を車に乗せて、私も一緒に車で送ってもらうことになった。やはり彼の父はお酒を飲んでいたらしく、私は彼の母親が運転する車の助手席に座った。

「へぇー、琴音ちゃんも藤山先生にお世話になってるんだ!じゃあ匠真とはそこで出会ったの?」

「そうですね。その後は飯村君が偶然私のバイト先に来たりとかして、それで」

 車を発進させてすぐ彼との出会いの話になり、私は開始早々に嘘をついた。実は彼を幼馴染と間違えたなんて言えるはずがなかった。

「すごい。なんか運命的ね」

 そう言って笑う彼女の横顔は、やはり彼とは似ていないように思う。ただ嬉しそうにする姿を見ると、親なら当たり前のことだろうけど、彼のことを本当に愛しているのだろうなと思った。

「運命なんてそんな。でも私、飯村君といると自分らしくいられる気がします。それに——」

 ここまで普通に話してきたけれど、突然彼のことを飯村君と呼ぶのはいかがなものかと思い始めた。今私と会話をしている彼女も同じ飯村なのだから、今だけは彼を下の名前で呼ぶべきなのかもしれない。

「それに?」

「あ、はい。匠真君(・・・)の考え方って素敵だなって思うんです」

 彼をその名前で呼ぶと頭の中に二人の人間が淡く映し出された。頭を小さく横に振ってそれをかき消すように彼女の声に耳を澄ませる。

「へぇ、どんな考え方?」

 彼女は興味津々に聞いてきた。息子の知らない部分を聞きたいという思いはその体を心なしか左側に傾かせていた。

「あの、記憶のこと……彼から聞きました。その時に彼が言ってたんです。今を大切にしたいって。私にはそれがすごく素敵に思えて」

「そっか。そんな風に言ってくれる人に出会えて、匠真もきっと幸せだと思うな。ありがとね」

 彼女の柔らかい雰囲気が彼の優しさに繋がっているのかもしれない。彼という人間が作られてきた過程をこの人は全部知っているのだ。どんな幼少期を過ごしてきたのか、知りたい欲が喉をつく。

「匠真君の記憶は、もう戻ることはないんですか?」

 なぜその質問になったのか自分でも分からない。知りたいと思った内容は言葉にするとその角度を変えてしまった。私の意思に反して出たその言葉に、運転する彼女の表情が一瞬だけ曇った。眠る彼の顔を彼女はミラー越しに見ると、寂しげな笑顔を作った。

「あの子が、それを望んでないの」

 赤信号で停まった車はアイドリングストップでエンジンを止めた。静かな車内に彼と、彼と同じように後部座席で寝ている父親の寝息だけが響く。街の灯りが両側から道路を照らし、そこに浮かび上がる信号の赤がひどく濁って見えた。
 それらを観察できるくらいの時間、私は黙っていた。何も、言えなかった。ようやく絞り出したのは、「そうなんですね」という一言のみ。そんな私に追い討ちをかけるように、右側から声がする。

「だからね、もうこれ以上、あの子に過去のことを聞かないであげて」

 それはあまりにも残酷な言葉に思えた。本当にそれでいいのだろうか。彼は本当にそれで——。

 彼にとっての『大切な何か』を私が見つけるなんて不可能だ。そんなことは分かっている。ただ私は、彼を、飯村匠真という人間を、もっと知りたい。それだけなのに、これ以上踏み込むなと引かれてしまった境界線は深く、そして濃く私の心の中に線を残した。それに抗うことができない自分が情けなくて、悲しくて、苦しくて、泣き出しそうだった。

 後部座席で目を閉じる彼は夢でも見ているのだろうか。ほんの少し口角を上げて、相変わらず気持ちよさそうに眠っている。



 ねぇ、飯村君。私は君のことを知りたい。でもそれは難しいことなのかもしれない。
 だから君が選んでほしい。そして君が私に教えて。

 本当の飯村匠真を、教えてよ。