繁華街を抜けてすぐに位置するその居酒屋は、全室半個室の仕様になっていて、私も何度も足を運んだことがあった。前に宮部君から飯村君はあまりお酒が強くないと聞いていたので、今日ここを選んだことに正直驚きもあった。それでも変にオシャレな店ではないことに安心する気持ちの方が大きかった。
 一杯目はお互い生ビールを頼み、運ばれてくるとすぐにグラスを鳴らした。彼が一気に飲み干そうとするので、私は慌ててストップをかける。

「ちょっと、大丈夫?飯村君お酒弱いんだよね?」

「うん、強くないけど?」

 ムスッとした表情で彼はグラスを置く。

「じゃあそんな一気に飲まなくても」

「——緊張してんの」

 彼の言葉に私は傾きかけていたグラスを戻す。常夜灯のような色の照明のせいなのか彼の頬は色づいて見えた。

「俺、今日一日ずっと緊張してたよ。朝電話した時からずっとだからね?今もそう。緊張してるから、お酒飲んで紛らわせてる。だから——」

 彼はもう一度グラスを口へと運び、ほんの少しだけ口を付けると渋い表情を作った。

「——だから?」

 食い入るように彼に問う。

「あんまり見ないで。本当に顔から火が出そう」

 そこで初めて自分の視線に気づいた。小さな机のみを挟んだ私たちの距離は少し手を伸ばせば届きそうだった。そんな距離感の中でずっと彼を見つめていた自分に気づき、私の方が顔から火が出そうになる。「ごめん」と慌てて視線を逸らして姿勢を正すと、彼との会話中ずっと前のめりになっていたことが分かった。今度はしっかり背もたれを利用して、私もグラス半分を飲み干した。

 恥じらいか気まずさか、それから数分間の沈黙があったが注文していた料理が運ばれてくると同時に終了し、それから私たちはいつも通りの時間を過ごした。
 私は五杯目あたりで体内に結構な量のアルコールが回っていることを自覚したが、やはり自分よりも酔っている人を見ると、私の体を蝕むアルコールたちはその働きを止めてしまう。

「浅倉さん」

 綺麗にセットされていた髪の毛を左手でくしゃっとしながら彼は私の名前を呼んだ。見ないでと言っていた割には真顔で見つめてくる彼の表情が段々とその形を変えてていく。何か言いたげに唇を尖らせている様子からするとあまり良い話ではなさそうだ。

「俺ね、今日、欲しかった」

 小さな声だった。周りの騒がしさにかき消されながらもなんとか私の耳に届いたその言葉は、文章というよりかは単語を繋いだだけのような印象だった。何が欲しかったのか、肝心な部分が欠けていることに私は首を傾げて説明を請う。

「チョコレート!」

 先ほどとは対照的に大きな声を出した彼に少々肩が震えた。大きすぎとも感じられたけれど、この騒々しい店の中ではそんな声も私にしか届いていないようだった。

「チョコレート?」 

 酔っ払った彼を気遣うように私は丁寧に復唱し、それが間違いではないかを確認する。

「そう、チョコレート。浅倉さんから欲しかった」

 どうやら間違いではないらしい。彼は拗ねていることをアピールするようにじっと私の顔を見ている。

「えっと、酔っ払ってる?よね?」

「うん、すごい酔ってるよ。でもチョコが欲しいのは本当」

 彼はそう言って机に伏せると、そのままの状態で「スマホ見てよ」と呟いた。
 その言葉に従いスマホを開く。だけど別に誰からの連絡もなかった。日付と時間のみが映された画面を隅々まで見るが、彼の真意は読めない。

「何が映ってる?」

 顔を半分だけこちらへ向けた彼の表情は甘えた子どもを連想させた。

「何って、日付と時間だけだよ」

「日付、ちゃんと見てよ」

 彼はそう言うとまた顔を伏せた。私はもう一度画面を見て表示された日付を自分にだけ聞こえるように呟いてみる。そして——

「あれ、今日バレンタインだったんだ!」

 チョコレートと日付。全ての伏線が繋がると、自然と大きな声が出た。それに反応するように起き上がった彼は大きな溜め息をついた。

「やっぱり何も知らずにデートしてたんだ」

 呆れた様子の彼に私は反射的に謝る。

「謝らなくていいからちょうだいよ、チョコ」

 口を尖らせて強請る彼は本当に子どもみたいだった。

「今から買いに行こうか?」

 我が子を甘やかすように私がそう言うと、

「はぁ。浅倉さんならそんなこと言い出すだろうなと思った。来月ちょうだいよ。ホワイトデーに、手作りで」

「——本気?」

 あまりに唐突な要求に私が尋ねると、彼は身を乗り出して私の頬に両手を添えてきた。目と鼻の先にいる彼の瞳に私の焦った表情が映り込む。

「ただの酔っ払いとか思ってるでしょ。俺、本気だから。約束ね」

 彼は手を離すと、背中を壁にピタッと付けて座り直した。私はパチパチと二、三度瞬きをしてから、訳もなく空のグラスを手にする。

 いつもより息苦しく感じるのも、鼓動が早いのも、全部アルコールのせいだ。そう思いながら溶けて水と化した氷を流し込む。途中一瞬だけ彼の方を見ると彼の瞳は閉じかけていた。
 脳が彼を認識した途端に息苦しさと鼓動は勢いを増す。どうやらこの症状はアルコールのせいではなさそうだ。